トリカゴ 2
おとなになりたくない。
歌や音楽とは違って彼の耳や心に突き刺さる大人たちの脂汚い言葉に囲まれていた少年は、いつしかそう願ってしまっていた。
あんなきたないひととおなじになりたくない。
上手だね、素晴らしいね、そう褒める言葉を吐き出した舌の根が乾かないうちに、もしくはにこにこと笑う顔の裏で、もっと歌え、この我侭、ガキのくせにと冷たいナイフのような言葉を彼に向ける大人たち。
うたいたいだけなのに、どうして、みんなこわいかおをしているの?
郡を抜いた才を持つ彼に、羨望と妬み、そしてどす黒い金儲けへの執着をおもむろに向けられて少年は傷ついていく。純粋に彼の歌を褒めてほしいだけ、お金だとか名声だとか気にしたことはない。一人でも多くの人に聞いてもらいたい、自分が歌や音楽を愛するように、他の人も同じ気持ちになって欲しいだけにひたすら歌っていただけ。
彼の歌や音楽は、天性の感性からすらすらと生み出され、無垢な感情から編み出される歌はあらゆる人々の心に染み入っていく。しかし、大人たちの裏表の温度差に純粋すぎた少年は恐れ、怯え、歌詞が酷い言葉で綴られているのを見たプロデューサーが彼の異変に気がついた。
それでも歌うことを辞めようとはしなかった。大人たちもそれを止めようともせず、歌詞を彼の言葉ではない陳腐な言葉を並べて歌わせ続けた。すんなりと受け入れたように見えた他人によって変えられた歌、それは彼にとって、自分の言葉を拒絶されたと傷ついていき、やがて心が軋んで疲れていく。
だれも こんなじぶんのうたを、ききたくないのかな
それでも彼は歌うことでしか存在を主張できなかった。歌うことを辞めたら、きっと死んでしまうんじゃないかと思えてしまっていた。それだけしか覚えてきてないからだ。幼い頃から、その才を認められ、よそにとられまいと瀕死の企業は彼を隠して育てあげてきた。株主の一人である男の息子が、丁度彼と同い年だというので数年一緒に遊んだだけで、ふつりと交流を絶たされたことも少なからず影響した。ごく普通の、子供らしい感情を抱くためのプラス作用と、突然遊ばせてくれなくなったことへの寂しさと絶望へのマイナス思考。
幼いその友人は変わり者だったけれども、歌うことしか知らなかった少年に、いろんなことを話して教えてくれた。海を渡った先にある世界、風景、人、音楽。隠れるように生きていた少年にはとても魅力あるいろんな話を聞かせてくれた。
だが、少年の無垢な歌が巨万の富を生み出すとわかった大人たちが、その無垢さを汚さないように、他所へ行かないようにと変わり者の友人との接触を断たせ、歌うことを強いていた。
大人たちの二枚舌な言葉を聴きたくなくて、常に音楽を耳に押し当てて目と心を閉ざしてきた。それでも歌うことの楽しさや嬉しさに、悪いことは一切忘れさせられた。しかし、歌詞に寂しさや大人たちの汚い言葉を連ねるようになって、持ち味の純粋さを損なわないよう改変させられた歌詞に、彼の言葉自体を否定されたと感じ取り、喋ることすら怖くなってしまう。
そして年々成長していく自分に、いつか大人になってしまうと気がついた時、彼は酷く怯えてしまう。
やがて自己防衛のためか、現実逃避になるのか、彼は年齢よりもずっと幼い知恵だけを残して全てを捨てていた。感情も、言葉も、笑顔すら。
このまま歌うだけ歌ってひっそりと消えてしまいたい、と都会を見下ろす部屋から願い歌う彼はそれでもどこかで願わずにはいられない。おとなの欲にまみれた芸名じゃない、本当の名を呼んでくれと。心の裏表のない澄んだ声で。
芸名じゃない本名で呼ばれることはこの数年許されていない。彼自身が酷く嫌がるからだ。昔からサイケに関わる人間は知っていても、最近の関係者はその本名があることすら知らないだろう。それほど機密レベルでの情報だった。
抵抗していても少しずつ大人へと成長していく彼は、このまま消えてしまいたいと願う日々を鬱々と過ごしていたのだが、ある日、その歌に出会ってしまった。
五月蝿いだけでしかないテレビから、すん、と心に染み入る声。これまで聞いた声のどれでもない、なのに懐かしいような、酷く胸が甘くかき回されるような歌声。思わず電源を入れてないまま持ち歩いていたipodにその歌を落としただけで、久しく忘れていた嬉しいと思える感情が湧き上がっていた。常にその歌を聴けるとなれば自然と嬉しさに顔が緩んだし、耳から聞こえる声に落ち着きもすればぐしゃぐしゃに胸と頭の中がかき混ぜられてしまったりもした。
言葉で物事を考えず、感情や感覚だけで物事を考えているサイケは、お世話係の波江が教えてくれた名前をどうにか言おうと何度も空気を吐き出しては飲み込んでいた。歌う時はすんなりと声が出るというのに、音もなく言おうとする言葉は喉が拒絶し、声が少しも出ない。もどかしさに苛立ち、泣き出してしまいそうにもなりながら、耳から零れる歌に聞き入りそっと唇を動かしてその名前を無音で紡ぐ。
つがる、と摩天楼を見下ろしながら必死で彼はその名を呼んでいた。そのネオンの向こうで振り向いてくれたなら、どんなに嬉しいだろうと思いながら。しかし、決して会えそうもないと酷く悲しい気分のままに。
どうにかして、つがると関わりたいとサイケなりに必死で考えていた。しかし部屋から一歩たりとも外に出る勇気もなく、考えるにも言葉を忘れてしまったサイケにはとても難しい話だった。
だが、今手がけている新曲の楽譜を手にしてふとサイケは思いついた。自分の歌を彼が歌えばどんなに素敵なのだろうかと。あの声が彩る旋律、と思えばすぐに手は動いた。彼の歌い方、音の取り方、全てを思い出しながら書き、出来上がった歌を波江に差し出して必死のジェスチャーを交えて思惑を伝えた。
「・・・え?貴方が、津軽の歌を・・・?」
思わぬ形で大型コラボになってしまったことに、レーベルはすごい喜びようを持って許可をしたが、波江にはただひたすら驚くばかりで状況を飲み込みきれていなかった。この前、津軽の歌をまともに聞いただけだというのに、気に入っただけで一曲プロデュースするなんて、と。波江がサイケの願いを理解すれば、恥ずかしそうに頷き、遠慮がちに笑ってみせる。
その真意を、サイケの心内を言葉にしてもらいたいのだが、土台無理な話だろう。何かを喋ろうとすると怯えたように喉はその声音を消してしまう。
津軽自身がその歌を気に入るかどうかわからない、もしかしたらサイケに大してライバル心であり、色々と思惑があるからに突っ返してしまうかもしれないが、そんなことを告げると酷く傷ついてしまうだろうから、本人に見せてみるけど、忙しいだろうから返事は遅いかもしれないとゆっくり告げて曲を持ったまま急ぎ足で会社へ戻った。
津軽は丁度プロモーションのための店舗巡りを終えて不機嫌そのものの顔で会社に居た。最悪な顔だわ、と波江が舌打ちするも、別の部署から疲れた様子の新羅が丁度津軽とは違うところにいたので、引っつかんで手短に楽譜を見せつつ説明をしてみる。あのサイケが津軽へ曲を書いたと聞けば同じく新羅も目を見開いて驚いた。