鳥獣たちのサンサシオン プレビュー
「ああ、もちろん構わない。それくらいなら何時でも」
「ほんとうに?ありがとう、零」
どういたしまして、という意味の穏やかな笑顔が無言で返される。その笑顔に背を押され、七代は雉明の手を握りしめた。
夕暮れ時の新宿駅前。職場や校舎から解放された人いきれのごった返す、公道も公道である。だが、都会の礼儀かみな足早に去るばかり。学生服の男子ふたりが手をつなぎあっているところを、わざわざ見つめるようなものはいない。
手を繋ぐ二人にそれを疑問に思うところは全くなかった。あまりにもぎこちなさのない行為は、一見そう目立つものではない。
「きみの手は、おれより少し硬いんだな。あたたかくて、きもちがいい」
「零が冷えてるんだよ。もうすぐ真冬なのこうして外にばっかりいるから」
率直でてらいのない言い様に、七代は内心あわてた。口説かれているわけではない。雉明は思ったままをいっただけなのだ。ここで調子に乗ってはいけない。七代はぐっと緩みそうになる顔をこらえた。雉明の前でみっともないところは見せたくない。せめて、好きな子の前くらい。
「ほら、あかくなってる」
雉明は線が細くどこか頼り無げな所があるが、手はその性質を如実に表していた。
七代よりも柔らかくずっと白い皮膚は、初冬の風に吹かれて先端がやや痛んでいる。ほそい骨に筋の浮いた手を、その赤さが更に痛々しく彩っていた。次に会うときまでに必ず手袋を用意しておかなければならないと、七代はつよく思う。
相手の指先に熱がうつるようにぎゅうぎゅうと緩急をつけて握りしめれば、申し訳なさそうに彼は苦笑する。
「七代。離してくれ。きみの手が冷えてしまう」
「うん。それは駄目」
にっこりと笑顔で笑顔で断れば、きょとんと眼が丸くなる。驚くほど素直で、どこか自己に執着のうすい雉明の性格は、彼の気配をますます儚げに見せてしまう。そんなのは寂しいと七代は思う。
「零は、白くて、ほそい手だなあ」
冷たい華奢な手は、七代の熱く大きな手に過負荷なく収まる。違和感はない。この手を温めるためなら、掛け値無しになんでも出来ると七代はおもう。あつらえたようにぴったりと寄り添う。不釣り合いということはない。たぶん、どちらにとっても。
こういう手を七代はもう一人知っている。
その掌がこの掌とは違う。個別のものであることもわかってはいるが、二つを同時に握りしめていることに罪悪感は湧かない。七代自身もふしぎではあるが、それは許されているような気がするのだ。行きつく先はおそらく同じであると思う。肌のあたたかさがそれを確かに七代に伝えている。そう思う。
離すことを許されず、結ばれたままの手に零は戸惑っている。彼の無防備さ、その無垢さがあらわになった顔をしていた。
可愛くて可愛くてしかたがない。こういう時、七代はいっそもう雉明を頭からのこさずぜんぶ食べてしまいたいと思う。それができればどんな味がするだろう。冷たくあわく雪のようにさらりと消えてしまうだろうか。だがその中には、決して容易には飲み込めず、かっと喉から胃までを焼き尽くす火酒のような芯がかくれている。きっと、そんな味ではないだろうか。
想像すれば我慢は効かず、七代は素早くかがんで唇をよせた。
桜貝の爪の先におとされた唇に、雉明は今度こそ心底その眼をまるくし、頬をあたたかく照らした。
白と零に触れるとき、七代は感じる。
望むかぎりすべて手に入らないものはないということ。
叶わないことなど何もないということ。
そしてその感覚こそ、他のなによりも遥かに信じるべきものであるということ。
その結論をまったく不遜と思わないことは、平凡からおよそ百億光年かけ離れているのだが、七代千馗は初めての恋に忙しく気付く暇はどこにもないのだった。
作品名:鳥獣たちのサンサシオン プレビュー 作家名:ろ き