ようかいもの(仮)
「今月もギリギリだなぁ……」
家計簿とにらめっこをしながら、帝人はポールペンを片手に軽く息をつく。かろうじて赤ではないもののあとひとつでもマイナスの要素がくればレッドゾーンに突入してしまう数字だ。今月はもう、なにも壊さないでいてくれればいいのだけど。同居人を思い浮かべながら苦笑を零す。俺も働く、と言って仕事に出てくれたのは嬉しいのだけれど。彼の稼ぎのほとんどは、彼自身が壊す物品の負債にあてられてしまっているのが実状だ。
でもそれよりなにより、彼自身が怪我を負わずに帰ってきてくれることの方が、帝人にとってはずっと重要だ。お金なんかよりも(……いや、お金も重要だけれど)ずっとずっと大事だ。
噂をすれば。かんかんと階段を上がる音が聞こえてきた。帝人の住む、このぼろアパートの二階にはここのほかにあと二つの部屋があるけれど、足音でわかる。もう階段踏み抜いちゃだめですよ、そう注意してからはとても慎重に上り下りをするようになった。これは彼の足音だ。
程なくしてがちゃりと錠が回されて、薄っぺらい木の扉が開く。
「おかえりなさい、静雄さん」
「おう、」
少し驚いた顔をしたあとに、ただいま、とこたえて嬉しそうにわらう。その心からの笑顔を見れば帝人の顔も思わず緩んでしまうのだった。
竜ヶ峰という一族がある。
とある筋のあいだでは知らぬものなどいない、というその一族のものは代々、魔を絶ち、封じ、使役するちからを持ち。土地とそこに住む人々を守護することを生業としてきたらしい。
今となっては、埼玉の奥の地で大きな屋敷をなんとか維持しつつ、細々と退魔の仕事で糊口を凌いでいるのが現状だが。かつては中央にも太いパイプを持ち、その力が国を左右するといわしめるほどの強大な力―――政治的にも、能力的にも強力な力を―――誇っていた、とのことだ。
らしいだとか、とのことだ、とか。伝聞系ばかりではっきりしない物言いなのは、帝人自身もよく知らないからだ。今でこそ竜ヶ峰の姓を名乗って……名乗らされている帝人であるが。数年前まで、自分がそんなたいそうな一族に連なるものだなんて知らなかった。思いもよらぬ事だったのだ。
両親を、不慮の事故で亡くすまで。帝人は「田中」というごくごく平凡な、日本によくある名字の、ふつうの子供だった。
……ごくたまに、妙なものを見てしまうことがあったりもしたけれど。
「なんだそれ?」
ちゃぶ台の上に広げられた家計簿を見て、静雄は不思議そうな顔をした。
「家計簿ですよ」
「かけいぼ?」
「こうして、お金の出入りを記録しているんです」
「帳面のことか」
金色の髪に金茶の瞳、という見た目と反して。静雄がときおり古臭い、古風な言葉を話すのには訳がある。外見こそ二十代の青年であるが、彼の本性は齢数百歳の人狼なのである。元山神であり強大なちからを持つ彼は、紆余曲折を経て、現在帝人の使い魔となっている。
「お前、また痩せてねぇか?」
そう言って頤を取られる。秀麗な顔が間近に迫ってきて、帝人はどきりと鼓動を大きく鳴らした。
「…そんなことないですよ?」
うそつけ。眉根を寄せて間髪いれずにぼそりと返されてしまえば、帝人に返す言葉はない。
「家から金、送られてきてんだろ?手をつけないのはなんでだ?やっぱり、あの家に頼るのは嫌だからか?」
「それもありますけど……」
帝人は言葉を濁し、曖昧に笑った。あんな家頼るものかという意地があることも確かだ。けれど、もっと重要な訳がある。今は、まだ、静雄には言えない理由が。
「お前はただでさえ細いんだからよ、食費を削るのはよくねえ。やめろよ」
栄養足りなくなったら困るだろ?続いた言葉に首を傾げる。
「あの、もしかして。栄養足りなくなったり、痩せすぎたりすると、気が薄くなるとかまずくなるとか…あるんですか?」
「へ……いや、そんなことねえよ!」
帝人のはいつでもうまい。続いた言葉がなんだか違う意味合いに聞こえてしまい、頬に血が集まるのがわかった。いたたまれなくて顔を逸らそうとすると、みかど?と不思議そうに訊ねられて余計に恥ずかしい。
食餌のことを言ってるんだから、それ以上の深い意味なんてないんだから勘違いするな僕のバカ!
心の中で必死に自分を罵倒して揺れる心を落ち着けようとする帝人を知ってか知らずか、細い頤に掛けられたままだった静雄の指が、つい、と動いて少年の薄いくちびるをなぞる。
「なあ、いいか?」
はらへった。そう言われてしまったら、帝人は瞳を伏せながら「…はい」と答えるほかないのだ。
閉じたままの上唇を静雄の舌がぺろりと舐める。そのまま、下唇を食むようにくちづけられて、帝人の薄い肩がびくりと跳ねた。肉厚の舌が小さな口内に捻じ込まれ、帝人のくちの中を我が物顔で這い回る。上顎を撫で回され小さな歯列を確かめるようにじっとりと舌を這わされる。縮こまる小さな舌を絡め取られれば、鼻から抜けるような、甘えたような、女の子みたいな声が出てきて恥ずかしい。
―――だいいち、こんな深いくちづけを交わす必要がほんとうにあるのかな?
いつも疑問に思うけれども、面と向かって静雄に尋ねることが出来ないままずるずると続けてしまっている。人外のあやかしである静雄の糧は主である帝人の『気』だ。気を通わせるには呼気をあわせる必要があるので、くちびるを合わせるのは理にかなっているとはおもうのだけれど……たぶん。
でも、これは、なんだか、執拗、というか。
「……ふぁ、っ」
ようやく開放されたくちびるであくあくと空気を取り込む。蟀谷がずきずきと痛んで目の前がちかちかした。力の抜けた帝人の身体を逞しい腕がそっと優しく抱きしめる。鼻で息しろって言ってんだろ、と耳朶に吹き込まれくつくつと笑われてしまい、かあっと顔に血がのぼるのがわかった。そんなこと、知るわけないじゃないか、静雄さんのばか。心の中でそう毒づき目の前の黒いベストをぎゅうと握り締める。強く握り締めたそれはきっと皺になってしまうだろうけれど、どうせアイロンをかけるのは帝人なのだから構わないだろう。
「ごちそーさん」
帝人の短い前髪を大きな手のひらがかき上げ、あらわになった額にいたわる様にちう、とくちびるが落とされる。赤い顔のまま見上げ「…お粗末さまでした」と呟くと、また笑われてしまった。