ひわひわのお話。2
嬉しくて、思わず女性の手を取ってぶんぶんと振ってしまった。
さっきの彼女のハグや腕組みほどではなかったと思ったけれど、
嬉しすぎて力の加減がわからなかったのか、
女性は俺の手を振りほどくと軽く両手首をさすっていた。
―――女性の頬が若干赤く見えたのは、気のせいだろうか?
「………全くもう…これだから庶民は嫌なのよ!
気分が悪いから帰るわ!!」
「お送り致します、こちらです。」
さっとあんずさんが動き、出口へと案内する。
俺は暫くボーっとその様子を眺めていたけれど、
我に返って慌ててドアに向かう2人を追いかけていく。
「ありがとうございました。
お気を付けておかえりくださ―――…」
『ちょっと待った!!』
俺の声に、ドアを開けていた女性の手が止まる。
支えを失ったドアはそのまままた閉まり、
そして女性が俺の方に振り向く。
「何?今更OKしたって遅いわよ?」
『違うんです!あの、そうじゃなくって!!』
「何よ?早くしてちょうだい。」
『あの………良かったら、また今度、お店に来てくれませんか?』
「え………?」
女性が驚いて目を丸くする。
まるで、俺の言ってる言葉が理解出来ていないかのようだった。
「来るって?私が?ここに?」
『はい!俺、待ってますから!!』
「じょっ…冗談じゃないわよ!どうして私がこんなところに…!!」
『これも何かの縁なんで、どうかなと思って。
さっきお貸ししたハンカチ、返しに来るだけでも良いですから。』
「………」
『ね?』
「………き、気が向いたら来てあげなくもないわ!」
『はい、是非!!』
満面の笑みで俺が返すと、
女性は少しだけ頬を赤くして俯いた。
照れ隠しかのように、乱暴にドアを開け、
最後に一瞬だけこっちを振り向いて、そして足早に去って行った。
「ふう………行きましたか。」
気付けば、オーナーとamuも近くに来ていた。
女性が去ると同時に、全員大きくため息をついた。
まだ開店前だというのに、みんなかなりやつれてしまっている。
「りせは、何でお前店に誘ったわけ?バカ?
こんなことがあったんだ、来るわけないだろ。」
『うるさいな、バカじゃない!!
………でも、あの人、多分来てくれると思うよ。』
「どうしてだ?」
『最後に俺の方チラッと見た時。
あの時、"ごめんなさい"って言ってたように見えたんだ。
だから………多分、ううん、きっと、来てくれると思う。』
「ほう…」
「へーえ…」
みんなの視線が、もういないドアの方を向いていた。
俺の見間違いでなければ、きっとそうだ。
確信というよりは願望に近いけれど、出来ればそう信じたい。
「りせはーっ!!」
『わっ、タヌ!?お前っ、今までどこいたんだよ?!』
「ふめめー、なんか怖そうだったから、隠れてたんだもっ!!」
「ほう…ナマモノの分際で影でこそこそ盗み聞きとはいい度胸ですね………」
「タヌはナマモノじゃないもっ!
それに盗み聞きじゃないも!勝手に聞こえて来たんだも!!」
「そんなのどっちでも構いません。ナマモノは滅するのみ!」
「ふめーっ!!」
どこから取り出したのか、
あんずさんが片手に塩の袋を持って狙いを定めた。
タヌとあんずさんとの間には火花が散り、完全な臨戦態勢だ。
「おいおい、開店前の店内、汚さないでくれよ。」
『…ってオーナー!時間やばいですよ時間!
早く準備しないとお客さん来ちゃいますよ!!』
「うわ、やっべ!あんずさん!争ってる場合じゃないですよ!!」
「チッ…ナマモノめ………生き永らえたか………」
「もっもっ」
「よし、じゃあさっさと準備にかかろう。
お嬢様方を待たせるわけにはいかないからな。」
「ふぇーい。」
『ちょっ…と待った!!』
「ん?」
「何だよ?」
全員の目線が俺に向かう。
少しだけ気恥ずかしかったけれど、勇気を振り絞って前を向く。
『えっと…今日は沢山迷惑かけてごめんなさい!
それと、その…みんなの気持ち、すっげー嬉しかった!!
俺、もっともっと頑張るから、だから、その………
これからも、よろしくお願いしますっ!!』
深々と頭を下げる。
みんなの気持ちが、言葉が、本当に嬉しかったから。
これだけじゃ足りないのはわかってるけど、
これが今の俺にできる精いっぱいだったから。
だから、今の気持ちを全部込めて、礼をした。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
誰も、何も言ってくれなくて。
みんな、本当は怒っていたんじゃないかと不安になる。
沈黙が怖くて頭を上げようとした瞬間、
ふわっとした手が順番に俺の頭を撫でた。
「そういう時は、"ありがとう"って言うんだぜ」
「ほらほら、早く準備しないとどんどん差が広がるぜ、"No.2"君?」
「お嬢様方を待たせるわけにはいきませんからね、急いで下さい。
あなたはうちの店の大事なホストなんですから。」
顔を上げると、全員何もなかったかのように
既に準備に向けて散り散りになっていた。
直接言葉にしなくても、
触れた手のひらからみんなの気持ちが伝わってきた気がした。
すごく温かくて、優しい気持ちだ。
『―――ッ…』
嬉しくて、でも、言葉に出来ない。
思わず目頭が熱くなる。
涙が零れないように必死に堪えていると、
ふと足元が温かいのに気付く。
下を見ると、タヌが俺の足元にまとわりついていた。
「あのね、あのね、タヌね、りせはのことだーいすきだも!」
そう行って、タヌもどこかへ走り去って行く。
どうしてみんな、ちゃんとお礼を言わせてくれないのだろうかと思って、
でもこれはこれでうちの店らしいな、とも思う。
『ありがとう。』
誰にも聞こえないように小さく呟いて、
そして、もう一度深々と頭を下げた。
いつまでいられるかはわからない。
いつ女だとバレてしまうかもわからない。
―――だけど、いつか「その日」が来るまでは。
それまでは、ここで、みんなと一緒にいたい。
『よっし、今日も頑張るぞー!!』
大きく伸びをして、そして俺も準備に駆けだした。