臨帝短文集
『 ユルスナール・アイロニーによりまだ恋がはじまらない 』
数時間その筋の関係者から身を隠していたいけれど隠れ家のどれかに籠っている気もしない、そんな理由だけで入った映画館は実に閑散としていた。リクライニングもしない固い座席に身を沈める。見たくて選んだ映画ではないが、それでも視線を前方へと固定したのは、脳が冴えすぎていてとても眠れそうにはなかったからだ。こめかみの血管が脈動しているのがはっきりと分かる。落ち着こうと自分に言い聞かせている分だけ、興奮している自覚はある。疲れていることも、追われていることも、捕まったらさすがにまずい状況にあることも、全て認識している。
スクリーンに映し出されているのは往年の名作のリバイバルで、モノクロの色彩ながら霧がかかったようにしっとりとした空気感がある。主演女優の肌も水を含んだようになめらかに見えた。演技は大したことはないというのが何十年と続くその女優への評価だったが、画像加工技術が現在程に発達していなかった当時、『大画面に耐えうる美貌』というのはやはり欠点を補って余り或る売りになったに違いなかった。
ーー 貴方はどうしてそう、自分を追いつめずにはいられないのですか
女優の声は甘かった。紡がれたフランス語は、それが母国語でない人間が聞いてもはっきりと棒読みであることはわかったけれど。そうであってさえ、なにもかもどうでもよくなって今すぐその女を抱きしめてやりたくなるような甘さで、恋人を責めていた。
ーー どうして普通の男のように暮らせないの?
ーー 朝に仕事に出て、夕に帰ってきて…
ーー いいえ、そんなことを望んでいるんじゃないわ
ーー どうして私を愛していると言いながら、使い終わった靴べらのように放り出しておけるのですか?
砂糖菓子に蜂蜜をかけたような声音の愚痴を聞きながら、(本当に靴べら程に役立ってくれる相手なら、普段から適当に上手い事あしらっとけよ。俺ならそうしとくね)と思う。もちろん、画面の中の男がスマートな振る舞いをしていたのではそもそも物語が始まらないのだけれど。
少しでも使える相手に対するまめさには自負がある、と己を省みる。もちろんその相手に利用価値がある間だけではあったが。ふと一人の顔が浮かぶ。浮かんで、少し心が騒めく。
(やだな、なんで俺今帝人君の事考えたんだろう)
その少年は映画とも己の思索の流れとも関係ないはずであった。まあ確かに使えるか否かや利用価値のあるやなしやを問えば、肯定しかない相手ではある。しかしそんな相手が彼ただひとりというわけでもないのに、自分の意識野にぱっと現れるというのは心外だった。(やだな)と反射的に感じる。そんな自分の心の声がどこか怯えているように聞こえて、ますます心中が波立った。
(怯える?怯える!俺があの子のどこを怖がらなくっちゃならないっていうんだ)
けれど本当は分かっている。自分が確かに恐れに似た感情を抱いていることを。最近、気づくと彼の事を考えていたりする。その前後の状況となんらの脈絡も無く彼の顔や声が頭に浮かんで、脳をかきむしりたいような衝動にかられたりもする。ウイルスに浸食されている最中のパソコンというのはこんな気持ちではないだろうか。少しそう思う。勝手に人の頭の中に住むのはやめてもらいたくて苛々するのに、実際に顔を会わせたらとてもそんなことを言う気にはなれない。むしろ現実に隣にでもいてくれようものなら、ずっとそのままでもいいと思う。頭の中を占拠されるのは困るが、実在のスペースにならどれだけいてもいいような気がする。(例えば俺の家とか)
そんな風に思ってしまう事が、少し怖いのだ。
だってそんなのは特別すぎる。全人類を平等に愛することを信条とし実行し続けてきた自分である。ことここに至って急に一人の存在だけ抜きん出て気にかかるなどというイレギュラーは受け入れがたい。それなのに、嗚呼受け入れがたいなあなどと言っている間にも脳内の浸食が進んでいるというのだから始末に負えない。
(大体俺今結構大変な状況なんだからね。君のことなんか考えてる場合じゃないの!)
まるで少年の方に非があるかのような言い草だが、勿論そうではない。自分が勝手に彼を特別視しているのだ。いつからこうなったんだろう。どうしてこうなったんだろう。世界中で彼だけがこんなに特別になってしまったというのは一体全体どうしたわけだ。
ーー 君がそんな風に考えていただなんて心外だよ
スクリーンの中ではたっぷり時間をかけて女に詰られた男がようやく口を開いたところだった。ぶつけられた不満もにらみつける目もどこ吹く風といわんばかりの余裕を見せて、男は語る。
ーー 僕が君に完璧な家事をして僕の帰りを待っていろと言わなかったことが不満だって言うのかね。何日も寄り付かなかったのは君に関心がないからだと?ねえ君、そんなこと本気で言っているんじゃないだろうね。だって君と僕の間にあるものがただの愛情だなんて、そんなもので満足できやしないだろう?
ーー あら、では私たちの間には何があるというの。愛情という情熱以外に?
男が流れるような仕草で女を引き寄せる。唇が触れ合わんほどに寄せ合った顔と顔のアップは、ここが山場ですよと言わんばかりのベタなカメラワークで、だからこそ台詞がすんなり耳に入って脳に到達した。
ーー 僕達の間にあるものは愛情なんかよりもっと良いもの
ーー 共犯性さ。
(なるほどね)
映画に自分を重ねあわせて見るだなんて馬鹿げている。けれど今、確かにひとつの回答となりうるものを得たと思った。
(共犯になることが愛することよりも密な関係性を持つとすれば)
(俺が彼を他より特別に思うのは当然だろうね)
この感情も人間の持つものとして当たり前の域を出ないというならば、何も問題はない。脳裏に未だ消えぬ彼の姿に心が騒ぎつづけているのだって、別に彼自身がどうということではない。彼と自分の関係性の所為なのだ。
(なーんだ、そっかそっか。うん、何もおかしくないや)
安堵にも似た思いを感じると、急に眠気が襲ってきた。そういえばこんなにも疲れていた、と他人事のように思いながら目を閉じる。
(映画が終わったら、帝人君の家に行こうかな)
帝人と自分の関わりが知られているとは思えないから、彼の家まで追手がかかることはないだろう。夕食を共にしたいとか一晩泊めてくれとか言ったら、彼はどんな反応をするだろうか。(楽しみだなあ)
眠りに落ちた青年の上に、不実な恋人に言いくるめられなかった女の声がホットケーキにかけられたシロップのように降り注いだ。
ーー 莫迦なひと、それで上手く説明をつけたつもりだなんて!