時を刻む唄
1 皆一度は経験したでしょ?
「もう信じられない!! 二人とも馬鹿なの? 馬鹿でしょ? 何やってるのさコンチクショーめ!! 兎に角、正臣!!園原さん!! 二人とも十分間そこで正座。とっとと今すぐやりやがれぇぇぇ!!」
「はい!! ごめんなさい!!」
「えぇぇぇぇ!!」
フライ返しを振り回し、真っ黒のエプロンを纏う腰に手を当て、怒れる帝人の顔は般若になっていた。
びしぃっと居間の床に一指し指を突きつけ、仁王立ちする彼の勢いに、杏里は身を竦ませ、即座に命令に従う。
だが。
「みかどぉ~、俺正座苦手だしぃ~、十分はちょっと長いんじゃねーの? それに杏里は俺に騙されただけだし、勘弁してやってよ? な♪」
「正臣は二十分ね。園原さんは今のまま続行」
「……ちょっと、いきなり二倍!! ふざけんなよ!!」
「口答えにつき、三十分に延長する」
「かわいくねー!! コラ、俺にそんな事言って、今晩、夜のお仕置き覚悟できてんだろうな!!」
「園原さんの前で卑猥発言一回。ペナルティ発動により、四十分に変更。それと今夜は別々に寝る。これ決定」
「み、みかどぉぉぉぉ!!」
「因みに今後、僕の許可なく発言した場合、明日から一週間、日の丸弁当だからね」
食べ盛りの高校一年生にとって、昼食がご飯と梅干一つだけなのは辛い。
とうとう諦めた正臣が、バネのように勢い良く姿勢を正し、しょんぼりうな垂れて正座する。
そこにおずおずと、杏里は発言の許可を求めて挙手をした。
「何?」
今の帝人お母さんは冷たかった。
腕を組み、じろりと目を眇めて睨みつけてくる。
「あの……、紀田君の正座四十分は可哀想なので、私が半分引き受けます」
「杏里ぃぃぃぃぃ♪ お前はなんて、エロ可愛いんだ♪♪ もう俺愛してるよ、そのエロさ♪」
「エロエロは余計だ、この馬鹿臣!!」
スコーンといい音をたて、今度はフライ返しで頭を叩かれている。
しかも容赦無く、金属の部分でだ。
流石の紀田も、涙目になって両手で頭を抑え悶絶する。
「それじゃあ、今から二人とも二十分ずつね。よーい、スタート!!」
ぱんっと柏手(かしわで)を一つ打ち、怒れる帝人はずんずんと荒々しく台所に戻っていった。
無理も無い。
杏里がちらりと左横を見ると、夏でも出しっぱなしだったコタツの上には、今晩のメインのおかずになる筈だったカニクリームコロッケの山が、コロモのカスしか残骸を残さず消えている。
これは帝人のオリジナルレシピの中でも、特に絶品な料理だった。
冷凍物だけど、本物のタラバガニの足をほぐして贅沢に使い、蒸したとうもろこしをすり鉢で丁寧にすり潰し、ジャガイモと生クリームとバターをたっぷり加えた上、それらをカチカチに凍らせてから衣をつけて、油で一気に仕上げるのだ。
仕込みは昨晩から行われ、時間も手間隙も材料もたっぷり使われたのに、二人がものの五分でぺろりと平らげてしまったのだ。
帝人が怒るのも当然だ。
どうやって謝ればいいのだろう?
ちらりと右横の正臣を見ると、彼は今、不思議な国のアリスに出てくる【チシャ猫】のような顔で、笑いをかみ殺していた。
「紀田君、いけません。真面目に反省しましょう」
「でもさ杏里、楽しいだろ?こういうの♪」
【つまみぐい】
夕食を待ちきれない子供が、そっと親の目を盗み、晩のおかずを掠め取って食い逃げる行為である。
杏里は生まれてこのかた、そのような経験をした事がなかった。
なんせ物心ついた時、家庭はすでに崩壊しており、一家団欒など夢でしか見た事がない。
そう正臣に告げた途端、彼はいきなり立ち上がり、とことこと台所に行ってしまった。
暫くしてスキップしながら戻ってきた時、手には分厚い新聞紙の上に重ねたクッキングペーパーを載せ、揚げたての【帝人スペシャルコロッケ】を、大量に持ち、彼は杏里専用の赤いお箸を差し出しながら。
「帝人が味見しろってさ。これで杏里も【初つまみぐい】できるよな♪」
そう言ってくれたから。
彼の気遣いがとても嬉しくて。
本当は『俺と杏里で、皿に盛るのを手伝うよ♪』と、正臣が帝人を騙して奪い取ってきた戦利品だったなんて知らず、盛大に食べまくり、あまりの美味しさに食べつくしてしまったのだ。
帝人が後から盛り付け用の三枚の白い大皿を手に、とことこと居間にやってきて、悲鳴を上げるまで、杏里は騙されていた事に全く気がつかなかった。
「紀田くん、どうしましょう?」
竜ヶ峰帝人と紀田正臣の二人とは、入学式以来段々と仲良くなり、また家族愛に恵まれなかったという共通点から親密度が跳ね上がり、初夏を迎える頃にはれっきとした親友だと言える存在に変わっていた。
杏里が一人暮らしだった事と、また正臣が非常に強引で人懐っこい性格だという条件が重なり、夏休み前にはなし崩しで、毎晩のように彼らと三人で夕食を一緒に摂るようになった。
一人分を自炊するより、三人で割った方が食費も浮くし。
何より帝人の作る料理は、そんじょそこらのレストランで食べるより絶品なのだ。
杏里に料理スキルはほぼなく、ご飯と味噌汁とカレーとシチューとラーメン程度のレパートリーしかない。
紀田正臣は、米を研ぐ時、食器洗い用洗剤のジョイを使い、泡まみれにした時点で、帝人から永久にお勝手に立つ事を禁止されていたから論外だ。
だが、竜ヶ峰帝人は根本から違う。
幼い頃から親の愛情に恵まれなかった彼は、再婚した父親の命令で、僅か小学一年で家の離れに追いやられ、日々の食事も自炊しなければならない状況になった。
きちんとした家庭料理を食べたかった彼は、直ぐに小学校横の公民館で、料理自慢の主婦とかが、無料で教えてくれる教室に全部参加して栄養を補給し、スキルも上げた。
そのうち、美味しいものを作る事が面白くなり、ちゃんとした料理教室に月謝を払って通い、純和食を基礎から教えて貰ったそうだ。
また職人気質の性格から、自分が食べたいものに関しては、熱心に追求してきただけあり、今ではハンバーガーやサンドイッチ、たこ焼き等のジャンクフードから、中華、フレンチやイタリアンなどの洋食に、焼き菓子までも、なんでもござれという腕前だ。
特に味に関しても妥協を許さず、評判の料理屋や行列ができるスイートのお店で食べた物を、自宅であっさりコピーしてしまえる。
今や彼は杏里や正臣にとって、もう魔法使いとしか言いようが無い、立派なお母さんだった。
「竜ヶ峰くん、とっても怖かったです。きっとまだ怒ってますよね?」
「あー、大丈夫大丈夫。帝人がメシでマジギレするのは、食べ物を粗末にしたり、大した理由も無しに食べ残したりする時だから。俺らはちゃんと綺麗に平らげたし♪」
「ううう」
「それにさ、『つまみ食い』したら、やっぱ母さんの雷まで体験しとかなきゃな♪ これで杏里も初体験終了~~♪ 大人の階段にまた一歩すすんでエロ可愛さが増したな~♪」
「だから何で馬鹿臣は、卑猥な言い方しかできないのさ。さあ、二人とも正座はもういいよ。ご飯できたから食べよう」
帝人が大きなお盆を抱えつつ、行儀悪く足で扉を開けて入ってくる。