めかくしセカイ
八月 〜「出逢い」或いは「再会」〜
[出逢い]
それは、焼けつくように暑い日だった。
「貴方っていつもそう!」
昼下がりのゆったりとした雰囲気に包まれた喫茶店に、突如として女性のヒステリックな声が響く。店員としてこの店でアルバイトをしている大学生・山田利吉は、作業の手をわずかに止めて、驚きと好奇の視線を向けた。
そこには、おそらく先ほどの声の主であろう茶髪の女と、なぜか顔からぽたりぽたりと水を滴らせ、目を丸くしてきょとんと前に座る女を見ている男がいた。
どうやら、男が濡れているのは、女の手元にある空のコップが原因のようだ。そういえば先程注文を聞きにいった時も、おもに女のほうから険悪な雰囲気が流れていたなぁなどと考えながら、おもむろ視線を下にやる。床にできた水溜りを見つけ、利吉は少々顔を歪めた。自分の仕事が増えて喜ぶ人間はいないだろう。ひっそりと溜息を吐く。この状況下でモップを持って割り込むわけにもいかないし、今はとりあえず成り行きを見守るのが妥当だろうと結論づけると、利吉は何も聞こえてないかのような様子で、中断していた洗いものを再開した。
「私より仕事のほうが大事なのなんてばかばかしいこと言いたくなかったけど、いい加減言いたくもなるわよ。これで何回目?」
「別に君より仕事を優先しているつもりはなかったよ。ただちょっと、偶然が重なっただけで」
苛立たしげな様子で早口に女が言う。男はこまったように眉を下げながら諭すような口調で告げるが、その言葉は女になんらかの感慨を与えた様子はなかった。
「その言葉を聞くのも何度目になるのかしらね。……もういいわ、別れましょう」
暫く沈黙が続いた後、女が深い溜息を吐いた。それから鞄から財布を取り出しながら、席を立ちあがる。男は弁解するでも引き留めるでもなく、ただどこか諦めを滲ませた風貌で、じっと女性を見つめている。
「それじゃあね」
ぴらりと千円札を一枚テーブルの上に置いてから、女は店のドアを開けて出て行った。
ついぼんやりと見送りかけ、利吉は慌てて扉の外へ消えゆく彼女に「ありがとうございました」と早口で告げる。純粋に店員としての義務感から発せられた、おざなりなその言葉が彼女に聞こえたかどうかは定かではない。
彼女が出ていくと、こぢんまりとした店内は、元の穏やかな様相を取り戻した。コーヒーの香りと、店内に小さくかけられた穏やかなBGM、そして外から聞こえる蝉の声が、空間を支配する。
店内に残されたのは、店員である利吉と、水に濡れながらも平然とした様子でコーヒーを啜っている男のみだった。ちょうど人が来る時間を外していたおかげで、元から客は彼ら二人だけ。重ねて言うと、利吉の雇い主である店長もまた、数分前から近所にあるいきつけの店へとコーヒー豆の買い出しのために出払っており、真実、彼らは現在この店に二人きりであった。
「…………」
利吉はちらりと、黙々とカップに口をつける男を見やった。
どうやらコーヒーに添えていた紙ナプキンで軽く拭いたようで、水滴はもう滴っていなかったが、それでも髪や服は、まだずいぶんと水を吸ったままのようである。
逡巡した後、利吉は厨房の奥へと向かった。控室のロッカーに投げ入れた自身の鞄から、まだ袋から出してもいない、未使用のハンドタオルを取り出す。今日は普段より一段と暑いから、買い出しでも頼まれた時には使おうと思い、行き際にコンビニに立ち寄って買ったものだ。
袋を片手に、やや急ぎ足でホールへと戻る。万が一会計をせずに出て行かれたら事だと思っていたが、男は変わらずぼんやりとした様子でコーヒーを手にしていた。
「お客様、宜しければこちらをお使いください。私物ですが、まだ一度も使っていないものなので」
店の奥にいる男へと歩みより、利吉がなるべく店員らしい、丁寧な言葉を選びながら声をかける。すると、俯き加減だった男が顔をあげ、そのまま固まった。利吉の顔を見るなり目を丸くし、あり得ないものを見たとでも言うような顔つきでじいと凝視してくる。
「……どうかしましたか?」
あまりに真っ直ぐ見詰められ、どこか居心地の悪い気持を覚えながら、利吉が尋ねた。やはり余計な世話だったのだろうか。ぽつぽつと不安が芽生える。
「あ、あぁ、いえ、ちょっと知り合いに似ていたもので……。ははは、みっともない所をお見せしてすみません。有り難く使わせてもらいます」
利吉の心配は杞憂であった。男は慌てた様子で首を左右に振り、苦笑を零しながら軽く頭を下げた。それから何事もなかったかのようにタオルを受け取る。
遠目で見た時の印象通り、いかにも人がよさそうな風貌の男であった。あまり気を回していないのか、すこし傷んでしまっている黒髪を適当に後ろで括っている。男性としてはあまり見ない髪型であるのに、不思議と似合っているように感じられた。
ごしごしと顔やら髪やらを拭いていた男が、不意に再び顔をあげる。利吉はそこでようやく自分が相手を凝視してしまっていたことに気付き、居た堪れなさを感じてさり気なく相手から視線を逸らした。
「いやぁ、ありがとうございます。偶然今日はハンカチを家に忘れてしまっていたので、どうしようかなあと思っていたのですよ。いやはや助かりました」
そんな利吉の様子に気づいた風もなく、男は人好きのする笑みと共に言った。ずいぶんと喋る人だ。人懐っこい性格なのだろうか。利吉は僅かに心にこびり付く居た堪れなさを、頬を掻くことで誤魔化しながら、苦笑を返した。
「いえ、余計な真似にならずに良かったです」
「余計だなんて、そんなことあるわけないじゃないですか。……そういえば、このタオルは店員さんのものを貸してくださったんですよね?」
「はい、そうですが」
利吉の返事を聞いて、男は考え込むように沈黙した。やはり私物は嫌だっただろうかなどと考えながら、利吉が相手の様子を注意深く見守っていると、男は思考が纏まったのか、顔をあげて利吉を真っ直ぐに見た。
「それなら、洗ってからお返しさせてもらいます。来週もこの時間帯にいらっしゃいます?」
「……え、そんな、私は別にそのままお返しいただいて構いませんよ」
予想外の申し出に、利吉は眼をぱちりと瞬かせた。それから遠慮からではなく本心でそう言ったが、男は首を左右に振った。
「それじゃあ私の気がすみませんよ。君が使うはずだった新品のタオルを使わせてもらったわけだし、洗うぐらいはさせてくれません?」
「は、はい。それでしたらお願いします」
穏やかな物言いではあるが、その響きに有無を言わさぬ気配を感じ、利吉はつい頷いた。男が満足げに笑う。
「ありがとう。で、この時間で大丈夫ですか?」
「ええ、この時間でシフトが入っているので、大丈夫です」
にこにこと笑う男につられ、利吉も作り笑いではなく、素の笑みを零す。ちらりと時計を見ながら言えば、男もまた利吉に倣いそちらへ視線を向けた。じっと見つめているのは、おそらく時刻を覚えるためだろう。
「ああ、そうだ。さっきから聞いてばかりで申し訳ないんですが、あと一つだけ良いです?」
「いいですよ、なんですか?」