めかくしセカイ
九月〜「困惑」或いは「苦悩」〜
[困惑]
講義を終えたばかりの教室は、長い授業から解放された学生たちのざわめきで満ちている。
利吉もそれを構成するうちの一人で、机に広げたノートや筆箱の類を鞄に仕舞い込みながら、一緒に授業をとっている友人たちと他愛のない話をしていた
「なあ、山田。今度の日曜ちょっと遊びにいかね?」
既に片づけを終えたらしい友人の一人が、後ろの机からずいと顔を出して尋ねてくる。利吉は「あー……」と考え込むように唸ってから、申し訳なさげに眉を下げた。
「わるい。その日バイトが入っているんだ」
「あれお前、前まで日曜は大丈夫じゃなかったっけ? 増やしたのかよ」
「いま他のバイトが少なくてさ。だから客が多くて忙しい土日はできる限り入ってくれって頼まれているんだよ」
意識して笑みを作る。店長からそうした頼みがあったことは決して嘘ではない。ただ、友人の誘いを断っている理由がそれだけではないことを、利吉自身、重々承知していた。
「ふーん、確か山田のバイト先って、親戚がやっている喫茶店なんだっけ。 下手に身内だとシフトとか断りにくそうだもんなあ」
隣から別の友人が、同情半分の様子でうんうんと頷いている。内心で店長に対して謝りながら、利吉は肩を竦めた。
「まぁ、そんなとこ。とりあえず、ほかのやつに宜しく言っておいてくれ」
「おう。次は付き合えよ」
「善処するよ。それじゃあ」
軽く手を振り、友人たちと別れる。授業終わりで人の多い廊下を速足で歩きながら、利吉は思考に沈んでいた。
我が事ながら、ここ最近の自分はおかしいと思う。
別に店だって、本当は利吉がいなければ回らないほど忙しいわけではない。利吉のバイト先の喫茶店は、駅から少し離れた住宅街にあるこぢんまりとしたものだ。ティータイムである午後三時前後は、地元の奥様がたが連れだって来ることもあるが、そうした時間を外してしまえば、客がいない事も少なくはなかった。そんなまったりとした店である、店長に言えば、2日連続は厳しくても、土日のどちらかくらいなら休みを出してくれるだろう。
だが、利吉は、そういったことを承知したうえで、友人たちの誘いを断った。今の利吉にとり、土日は、とくに日曜日は、頼み込んででも出勤したい日となっていたからだ。原因は、最近店の常連になった彼――半助である。
一ヵ月前に奇妙な知り合い方をした年上の男は、あの後から週に何回か店に来てくれるようになった。
元々そんなに客が来ない、言ってしまえば暇な事の多い店である。半助が店に来るたびにちょっとした雑談を交わすようになるまで、そう時間はかからなかった。そうしているうちに、気がついたら彼の来店を心待ちにするほどになっていたのである。相手が年上だからだろうか、半助と話していると、友人と話す時とは違う、穏やかな楽しさを感じるのだ。それに、不思議と安心感というか、ふわふわとした感情が心の底から湧きあがってくる。それがまた利吉には心地よかった。
今日は金曜日。社会人である半助が来る確率は、二割ある美かないかといった程度だろう。それでも利吉は「もしかしたら会えるかもしれない」という期待に胸を膨らませながら、自然と店へと向かう足取りを速めていった。
結論から言えば、半助は利吉のシフトが終わる八時現在までに姿を現すことはなかった。
利吉はあからさまにしょんぼりとした様子で、狭い従業員控室で制服代わりのエプロンを脱いだ。先週の金曜日は会えたものだから、つい今週も来るのではないかと期待をしてしまったのが間違いだったのだろう。思っていた以上に大きかったショックを持て余しながら、利吉は帰り支度を黙々と進めていた。
「それじゃあ、お先に失礼します」
「お疲れ様」
客がいない店の中でのんびりとコーヒーを啜る店長に帰りのあいさつをし、返事を背に受けながら店を出る。空を見上げると、真っ暗な夜空に、真っ白な月がぼんやりと浮かんでいた。綺麗と思うと同時に、どこか寒々しさを覚える。不意にずきりと頭痛を覚えて、反射的に視線を反らした。それから溜息をひとつ零し、自転車が置いてあるほうへと向き直る。
「あれ、利吉くんじゃないか」
突然、聞こえるはずの無い声が聞こえた。勢いよく振り返る。
そこにいたのは、半助によく似た男であった。いや、シルエットや顔だけを見れば間違いなく土井半助であった。だが、おかしいのは服装だ。まるで映画や漫画の忍者みたいな格好をしているのである。以前に忍者になっている夢を見るとは言っていたが、まさか現実でこんな行動に出る人だとは到底思えず、利吉は眉を顰め、凝視する。
「……利吉くん?」
半助に似た男が言葉を重ねた。それから無造作に、かつんと足音を響かせて一歩近づいてきた瞬間、不意に頭がひどく傷むのを感じた。思わず痛みを堪えるために目を瞑る。痛みはすぐさまひき、利吉がそろそろと瞼を上げる、まるで先程までの光景は幻だというように、そこには利吉が見知った半助が立っていた。仕事帰りだからだろう、くたびれたスーツを身にまとっている。間違っても、闇に溶けるような黒い忍び装束などではない。
では、先程のあれはなんだったのか。白昼夢にしてはおかしな点が多すぎる。利吉は目をぎゅっと強く瞑り、それから開いた。やはり見えるのはスーツ姿の半助である。
「おーい、利吉くんってば。どうしたんだい? 具合が悪いなら、こんな所で突っ立っていると尚更悪化してしまうよ?」
ありえないものを見た衝撃で固まっていた利吉だが、心配そうな半助の声に正気を取り戻した。とっさに笑みを取り繕う。
「すみません、大丈夫です。ちょっとぼんやりしていて」
「こんな道の真ん中でかい? 幾ら車通りが少ないとはいえ、褒められたことじゃないぞ。疲れているんじゃないかい? 」
「そんなことはないですよ。実を言うと、大学の課題について考えていただけなんです。提出が近いのに、まだ終わっていないなぁと思っていて……情けないので、あまり土井先生には言いたくなかったんですけどね」
「なるほど。確かにあんまり人には言いたくない事だろうなあ。私にも覚えがあるよ」
苦笑いを浮かべながら苦し紛れに放った利吉の言を、半助は信じたようだ。はははと笑いながら応える半助を見つつ、利吉は安堵に胸をなでおろした。これ以上詮索されても、本当の事を言えるはずがない。自分ですら、自らの目が見た光景が信じられないのだから、いわんや他人をや、である
「土井さんはいまお帰りですか?」
「テストの採点をしていたら少し遅くなってしまってね。今日は委員会活動や部活動がない日でよかった」
「それはお疲れ様です」
土井が肩を落として溜息を吐く。その姿からも疲労が見てとれて、利吉は心から労わりの言葉を発した。
と、不意にうつむいていた半助が顔を上げ、利吉を見る。それから肩を掴み、にっこりと笑顔を浮かべた。
「利吉くんはいま何歳だっけ」
「ええと、今年で二十になりました」
「よし」
ばしんと肩を叩かれる。突然の事に驚いて眉をしかめていると、今度は腕を掴まれた。そのまま半助がずんずんと歩き出す。利吉は何がなんだかわからず頭からクエスチョンマークを出しながらも、足をもつれさせつつ歩き出す。