英雄 ~6 years ago~
“トロイ”という名がクールーク皇国の一般民の間にまで知れ渡ったのは、エルイール要塞がまだ建築途上にあった折のガイエン公国艦隊との攻防戦においてであった。
それまでにも彼は数々の武勲をあげており、軍部内では気鋭の若手士官として注目を集めていた。
だが、その名を知っているのは軍の人間に限られており、さらにその名に興味を持つのはごく一部の者しかいなかった。
彼の家名である“ランバード”の名に無関心ではいられない軍上層部の大貴族達。
そして仕官学校時代から続く彼の輝かしい経歴に、憧れと羨望の眼差しを送る後輩達。
士官学校の後輩達にとっては、“トロイ”は彼が『海神の申し子』とあだ名される遥か以前から伝説的な存在だった。
“トロイ”が士官学校在籍当時に残した足跡は、学校側に「100年にひとりの逸材」と言わせるほどに輝かしい。
“トロイ”の後輩にあたる者達は、自分達よりほんの数年前に卒業したにすぎないこの人物に追いつき、追い抜こうと、躍起になって己を磨いた。
彼らにとって“トロイ”とは、学内における伝説的な存在ではあったが、同時に自分達の目標にすべき手の届く存在でもあった。
だが、それも若き英雄が誕生したこの日を境に一変する。
孤立無援の状態で4倍の敵を打ち倒し、クールーク皇国に輝かしい勝利をもたらした英雄。
彼の英雄譚はまたたくまに国中に広がり、まるでそれが当たり前かのようにいつしか人々は“トロイ”の名を呼ぶ代わりに、畏敬を込めて彼のことを『海神の申し子』と称すようになっていた。
———海神の祝福を受けた英雄
———我らに勝利をもたらす軍神
人々は自分達の手で作り上げた英雄の姿に酔っていた。
海神の申し子がいる限り、我らに敗北はあり得ないと。
すでに約束された未来へと、想いを馳せることができた。
その眼差しの先にいるのが、英雄というにはあまりにも壊れやすい人間であることを忘れて。
人々は、夢を見ることを許された。
“トロイ”はか弱き人というには、あまりにも強き眼差しを持っていたがために。
誰もが彼を“英雄”と呼ぶことに疑問を抱かなかった。
哀しむべきは“トロイ”には、あまりにも英雄たる素質がありすぎたのだ。
ヘルムートはただ無心に剣を振り続けた。
汗は雫となり、体の動きに合わせて四方へと飛び散る。
この辺りはもとから陽光の厳しい土地だが、今日はいつもにも増して太陽の照りつける角度が厳しく感じられた。
軍内の訓練は、昼から始められたばかりだ。
本来ならばこのように一般兵の訓練に混じって、士官兵であるヘルムートが訓練を受けることなどないのだが、今日ばかりは特別だった。
———あのエルイールの英雄である“海神の申し子”が、一般兵の訓練の視察に来る。
朝から一兵卒の間は、その話題でもちきりだ。
彼らにとって“トロイ”とは雲の上の存在であり、自分達からは直接に声をかけることさえ叶わぬほどの人物だった。
そんな英雄が、ただの一般兵でしかない自分達の訓練の視察に来る。
たったそれだけのことが、兵達にとってはこの上ない栄誉であるように思われる。
実際にトロイが彼らの訓練の指導をしたり、個人的に声をかけてくれたりするわけではないのだが、それでも興奮は渦を巻き、誰もがいつもより気合いを込めて訓練に挑んでいた。
ヘルムートとて訓練に挑む気迫では、周りの誰にも負けないものがある。
わざわざこのように一般兵に紛れて訓練を受けているのも、どうしても噂の“トロイ”に会いたかったからだ。
だが、彼の場合は、他の兵士達とはあきらかにその動機が違った。
ヘルムートはトロイを英雄とは認めていなかった。
いや、彼とてトロイが挙げたその勲功の偉大さは十分にわかっている。
たった一隻で四隻の艦を打ち破ることがいかに不可能に近い偉業であるかは、“トロイ”のことを神のように崇める民衆達よりも、同じ海軍に身を寄せるヘルムートのほうがよほど理解していた。
若かりし頃から着実に武勲を重ねていっているトロイは、確かに優れた軍人であるだろう。だが、ヘルムートにしてみれば、そのこと自体はそれほど大したことであるとは思わない。
彼の経歴を丁寧に追っていけば、彼の武勲の数々は“海神の申し子”の名からは意外に思えるほどに派手さの欠片もないものばかりだった。
士官学校時代には「100年にひとりの逸材」と言われたほどだが、実際に軍に入隊してからの彼は、どちらかというと堅実に足場を固めていっているという具合だ。
ヘルムートが軍に入隊してから4年の歳月が流れているが、今の自分と当時のトロイとの武勲を比べてみれば、それほど差があるとは思えない。トロイが“海神の申し子”とまで呼ばれるようになったのは、たった一度、昨年のエルイール攻防戦において奇跡のような勝利をその手にしたからだった。
その結論に行き当たってから、ヘルムートの胸には釈然としない思いばかりが募っていく。
なぜ、トロイがこれほどまでに英雄視されなければならないのだろう。
彼の存在が海軍の顔そのものとなりつつある現状を、ヘルムートは受け入れることができなかった。
士官学生時代には、彼の名に憧れもした。
他の朋友達とともに、トロイを目標とし、彼以上の成績を収めて卒業しようと軍学と剣技に力を入れた。
結果として、ヘルムートはその年の卒業生の間では首席という輝かしい地位に着いたものの、過去にトロイが残した業績には届かなかった。
軍に入隊してからも、ヘルムートにとってトロイは目指すべき目標であり続けた。
彼が挙げた武勲より、さらに大きな武勲を。
常にその背を追って、ヘルムートは走り続けた。
だが、それが今ここに来て、揺らぎ始めている。
いつかはトロイに追いつけると思っていたのに、彼が“海神の申し子”となったがために、ヘルムートは追うべき背中を見失った。
理不尽だと思う。
たった一度の奇跡的な勝利が、自分と彼の差を決定的に分けてしまった。
本来ならば彼と同じ地に立つことで、ようやく同じスタートラインに並べると思っていた。
それなのにこうして彼のいるこのエルイールの地に転属されたかと思えば、相手はすでに自分の手の届かない遥か彼方の存在だ。
彼と自分のいったいどこが違うというのだろう?
彼のほうが自分よりほんの数年早く生まれて、ほんの少しばかり運に恵まれていただけのことではないか。
それなのに彼のことをまるで神のように崇める民衆も、それよりさらに熱い眼差しを注ぐ兵達の存在もやけに腹立たしかった。
だから、今、ヘルムートはこの場にいる。
エルイール要塞に赴任してきたばかりの時、クールーク海軍第二艦隊副司令官でもある自分の父が、誰もが憧れる英雄“トロイ”にヘルムートのことを紹介しようとした。だが、ヘルムートはその栄誉ある立場を、もっともらしい理由をつけて辞退した。
その理由はただひとつ。
彼と顔を合わせる時は、自分自身の力で。
父の名に頼ることなく、己の持つ力のみで。
それが“トロイ”を追い続けてきた、ヘルムートの意地なのだ。
それまでにも彼は数々の武勲をあげており、軍部内では気鋭の若手士官として注目を集めていた。
だが、その名を知っているのは軍の人間に限られており、さらにその名に興味を持つのはごく一部の者しかいなかった。
彼の家名である“ランバード”の名に無関心ではいられない軍上層部の大貴族達。
そして仕官学校時代から続く彼の輝かしい経歴に、憧れと羨望の眼差しを送る後輩達。
士官学校の後輩達にとっては、“トロイ”は彼が『海神の申し子』とあだ名される遥か以前から伝説的な存在だった。
“トロイ”が士官学校在籍当時に残した足跡は、学校側に「100年にひとりの逸材」と言わせるほどに輝かしい。
“トロイ”の後輩にあたる者達は、自分達よりほんの数年前に卒業したにすぎないこの人物に追いつき、追い抜こうと、躍起になって己を磨いた。
彼らにとって“トロイ”とは、学内における伝説的な存在ではあったが、同時に自分達の目標にすべき手の届く存在でもあった。
だが、それも若き英雄が誕生したこの日を境に一変する。
孤立無援の状態で4倍の敵を打ち倒し、クールーク皇国に輝かしい勝利をもたらした英雄。
彼の英雄譚はまたたくまに国中に広がり、まるでそれが当たり前かのようにいつしか人々は“トロイ”の名を呼ぶ代わりに、畏敬を込めて彼のことを『海神の申し子』と称すようになっていた。
———海神の祝福を受けた英雄
———我らに勝利をもたらす軍神
人々は自分達の手で作り上げた英雄の姿に酔っていた。
海神の申し子がいる限り、我らに敗北はあり得ないと。
すでに約束された未来へと、想いを馳せることができた。
その眼差しの先にいるのが、英雄というにはあまりにも壊れやすい人間であることを忘れて。
人々は、夢を見ることを許された。
“トロイ”はか弱き人というには、あまりにも強き眼差しを持っていたがために。
誰もが彼を“英雄”と呼ぶことに疑問を抱かなかった。
哀しむべきは“トロイ”には、あまりにも英雄たる素質がありすぎたのだ。
ヘルムートはただ無心に剣を振り続けた。
汗は雫となり、体の動きに合わせて四方へと飛び散る。
この辺りはもとから陽光の厳しい土地だが、今日はいつもにも増して太陽の照りつける角度が厳しく感じられた。
軍内の訓練は、昼から始められたばかりだ。
本来ならばこのように一般兵の訓練に混じって、士官兵であるヘルムートが訓練を受けることなどないのだが、今日ばかりは特別だった。
———あのエルイールの英雄である“海神の申し子”が、一般兵の訓練の視察に来る。
朝から一兵卒の間は、その話題でもちきりだ。
彼らにとって“トロイ”とは雲の上の存在であり、自分達からは直接に声をかけることさえ叶わぬほどの人物だった。
そんな英雄が、ただの一般兵でしかない自分達の訓練の視察に来る。
たったそれだけのことが、兵達にとってはこの上ない栄誉であるように思われる。
実際にトロイが彼らの訓練の指導をしたり、個人的に声をかけてくれたりするわけではないのだが、それでも興奮は渦を巻き、誰もがいつもより気合いを込めて訓練に挑んでいた。
ヘルムートとて訓練に挑む気迫では、周りの誰にも負けないものがある。
わざわざこのように一般兵に紛れて訓練を受けているのも、どうしても噂の“トロイ”に会いたかったからだ。
だが、彼の場合は、他の兵士達とはあきらかにその動機が違った。
ヘルムートはトロイを英雄とは認めていなかった。
いや、彼とてトロイが挙げたその勲功の偉大さは十分にわかっている。
たった一隻で四隻の艦を打ち破ることがいかに不可能に近い偉業であるかは、“トロイ”のことを神のように崇める民衆達よりも、同じ海軍に身を寄せるヘルムートのほうがよほど理解していた。
若かりし頃から着実に武勲を重ねていっているトロイは、確かに優れた軍人であるだろう。だが、ヘルムートにしてみれば、そのこと自体はそれほど大したことであるとは思わない。
彼の経歴を丁寧に追っていけば、彼の武勲の数々は“海神の申し子”の名からは意外に思えるほどに派手さの欠片もないものばかりだった。
士官学校時代には「100年にひとりの逸材」と言われたほどだが、実際に軍に入隊してからの彼は、どちらかというと堅実に足場を固めていっているという具合だ。
ヘルムートが軍に入隊してから4年の歳月が流れているが、今の自分と当時のトロイとの武勲を比べてみれば、それほど差があるとは思えない。トロイが“海神の申し子”とまで呼ばれるようになったのは、たった一度、昨年のエルイール攻防戦において奇跡のような勝利をその手にしたからだった。
その結論に行き当たってから、ヘルムートの胸には釈然としない思いばかりが募っていく。
なぜ、トロイがこれほどまでに英雄視されなければならないのだろう。
彼の存在が海軍の顔そのものとなりつつある現状を、ヘルムートは受け入れることができなかった。
士官学生時代には、彼の名に憧れもした。
他の朋友達とともに、トロイを目標とし、彼以上の成績を収めて卒業しようと軍学と剣技に力を入れた。
結果として、ヘルムートはその年の卒業生の間では首席という輝かしい地位に着いたものの、過去にトロイが残した業績には届かなかった。
軍に入隊してからも、ヘルムートにとってトロイは目指すべき目標であり続けた。
彼が挙げた武勲より、さらに大きな武勲を。
常にその背を追って、ヘルムートは走り続けた。
だが、それが今ここに来て、揺らぎ始めている。
いつかはトロイに追いつけると思っていたのに、彼が“海神の申し子”となったがために、ヘルムートは追うべき背中を見失った。
理不尽だと思う。
たった一度の奇跡的な勝利が、自分と彼の差を決定的に分けてしまった。
本来ならば彼と同じ地に立つことで、ようやく同じスタートラインに並べると思っていた。
それなのにこうして彼のいるこのエルイールの地に転属されたかと思えば、相手はすでに自分の手の届かない遥か彼方の存在だ。
彼と自分のいったいどこが違うというのだろう?
彼のほうが自分よりほんの数年早く生まれて、ほんの少しばかり運に恵まれていただけのことではないか。
それなのに彼のことをまるで神のように崇める民衆も、それよりさらに熱い眼差しを注ぐ兵達の存在もやけに腹立たしかった。
だから、今、ヘルムートはこの場にいる。
エルイール要塞に赴任してきたばかりの時、クールーク海軍第二艦隊副司令官でもある自分の父が、誰もが憧れる英雄“トロイ”にヘルムートのことを紹介しようとした。だが、ヘルムートはその栄誉ある立場を、もっともらしい理由をつけて辞退した。
その理由はただひとつ。
彼と顔を合わせる時は、自分自身の力で。
父の名に頼ることなく、己の持つ力のみで。
それが“トロイ”を追い続けてきた、ヘルムートの意地なのだ。
作品名:英雄 ~6 years ago~ 作家名:まるてぃん