彼と未来と、約束と。
雨はすっかり上がり、夕刻に合わせた涼やかな風が頬を撫でて行く。赤ん坊が泣きだした時の事を考えて、斎藤は出来るだけ人気の少ない道を選んで歩いた。
ふと赤ん坊を見ると、いつの間に目を覚ましたのかその大きな瞳で斎藤を見上げている。身体を二重に包まれて身動きできない事が不満なのか、言葉にならない声を出しながらもぞもぞと手足を動かしている。
「お前の名は、何と言うのだろうな…」
胸元の赤ん坊に、問い掛ける如く呟いた時だった。
「おい、そいつを寄こせ」
赤ん坊に向けた視線を前へ向けると、二人の浪士が道を塞ぐように立っていた。あまり品のある身なりはしておらず、所謂不逞浪士と呼ばれる輩だった。
どうやら風呂敷で包んだのが裏目に出たらしい。二人の浪士は斎藤の腕にあるものが金目の物だと思っているらしく、ニヤニヤと不敵に笑いながら風呂敷を見詰めている。
しかし斎藤は自分に向けられる言葉を気にした様子もなく、二人の間を涼しげな顔で通り過ぎようとする。
「おい、聞こえてんのか!」
二人一緒にいるせいか、浪士達は変わらず強気だった。大きく声を張り上げ、一人が赤ん坊を包む風呂敷に手をかけ強引に奪おうとしてグイッと引っ張った。
「これは、お前達などが汚い手で触っていいものではない」
流石に無視も出来なくなった状況に、斎藤が抑揚のない声で冷静に言い放った言葉に対し、更に苛立った二人はとうとう腰の物に手を掛けた。
が、二人が刀を抜くより早く、濃紫の髪がふわりと舞う。
一陣の風が浪士の横を通り過ぎる頃には、既に斎藤は刀を鞘へと納めていた。
「うわぁあああ!!」
何が起こったのか分からないまま、二人の浪士は刀を抜こうとした腕から大量に出血している。訳が分からず腕に走る激痛に一人が血の滴る腕を薙ぎ払うと、流れる赤い液体が飛沫となって硬い土の上に飛び散った。
斎藤は両足を大きく開きいつでも抜刀出来る状態で二人を見据えていたが、その鋭く刺すような視線に怯んだ二人は反撃する事もなく血の滴る腕を押さえながら走り去って行った。
「無様だな。覚悟の無いやつらだ…」
走り去っていく二人の後ろ姿も見送る事なく、斎藤はまた自分の目的地へと足を進めた。ふと、赤ん坊に視線を落とすと、今しがた生きるか死ぬかの一悶着があったにも関わらず機嫌が良さそうにもぞもぞと身じろいでいる。
掴まれて乱れた風呂敷の下から赤ん坊を包む白布が覗いているが、目的の場所まではあと少し…このままでもいいだろうと思った瞬間、斎藤の目に小さな赤い点が映った。
赤ん坊の身体を包む真っ白な布に、小さな、赤。
先程の浪士の血だ。
途端に斎藤は眉間に深く皺を寄せた。大切なものを汚されたような…いや、自分が汚してしまったような気がしてこの小さな存在に対し申し訳なさと、どうしてこの子の前で刀を抜いたのかと自分の咄嗟の選択を後悔した。
無垢な存在には、到底似合わぬ、赤。
斎藤はすぐに木陰に移動すると、風呂敷を剥ぎ白布をするすると赤ん坊から解き取った。代わりに、自分の白い襟巻で赤ん坊を包み始める。赤ん坊はやっと自由に手足を動かせる事を喜んでいるのか、忙しなくバタバタと動いている。
汚れの無い真っ白な包布に包んだ赤ん坊を、再び風呂敷に包む。丁寧に、丁寧に。
「……お前は、血に染まぬ道を行け。その道は、必ず俺達が作ってやる」
斎藤の声に、赤ん坊がふわりと笑った気がした。
無事に奉行所へ向かい、門の外にいた者に来訪の理由を告げて赤ん坊を渡した。斎藤の代わりに赤ん坊を抱いた者が、慌ただしく駆け寄ってくる髪の長い女に赤ん坊を抱かせる。
途端に女は心の底からの安堵の表情を浮かべ、泣き出し、我が子を強く抱きしめた。それをきちんと見届けてから、斎藤は再び屯所へ戻る為に歩き始めた。
歩く度に首に巻いた襟巻から、ふわりと柔らかく仄甘い香りがする…赤ん坊の香りだろう。胸の中が、じんと暖かくなるような…今までに嗅いだ事のない香り。
斎藤は軽くなった右腕を、歩きながら空に翳してみた。手を握ったり開いたりを繰り返すと、先程までの重みと温もりが嘘のように軽い…しかし、目には見る事の出来ない約束はしっかりとその手に握られている。
あの子と交わした、約束。
斎藤はぐっと強く拳を握ると、夕暮れ時の真っ赤に染まった空を見上げ呟いた。
「…お前に似合う赤は、ここにあるぞ」
作品名:彼と未来と、約束と。 作家名:香 雨水