妖鬼譚
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走って数分、漸く辿り着いた自分の家を包む紅い夕暮れの光に、強烈な既視感を覚えた謙也は、門の手前で足を止めた。
家もその周囲も恐ろしい程に静まり返っていて、澱んだ重苦しい空気に満ちている気がした。
その不気味な気配を打ち消すべく、扉に掛かっている鍵を開けようと、鞄のポケットの中から白と赤の星のキーホルダーの付いた鍵を取り出した謙也は、それをドアに差し込んで回す。
だが、カチリという音を立てた扉は、謙也の意図とは逆にロックが掛かってしまったようである。
ドアの鍵が元から空いていたという事に、更に嫌な予感を感じた謙也は、再度鍵を回してロックを解除すると、一瞬躊躇った後、一気にドアを開けた。
「うっ……」
扉を開けるなり鼻を突いたのは、噎せ返る程の血臭。
家の中からどろりと流れ出て来たそれは、『夢』とは比較にならない程に血腥い物で、気持ち悪さに堪え切れなかった謙也は、その場に蹲って嘔吐してしまう。
胃の中身を全て吐き出しても吐き気が治まらず、暫くの間、胃液のみを吐いていた謙也だったが、やがてよろよろと力なく立ち上がって口元を袖で拭うと、弱々しい足取りで家の中へと上がった。
だが、居間に踏み込むと、玄関以上の濃密な血の臭いと共に視界に飛び込んできた光景に、完全に言葉を失ってしまう。
忍足家の広い居間は、床も壁も天井も家具も、その場に在る物全てが大量の真紅の絵の具をぶち撒けたかの様に赤が飛び散っていた。
その紅い飛沫に彩られていた部屋の中心には、両手を組んだ体勢で仰向けに寝かされている母親の姿があった。
何処迄も赤い部屋とは対称的に母親の顔は紙の様に真っ白で、その肉体にはもう魂が宿っていないという事がはっきりと観て取れた。
だが、夥しい周囲の血の量にも関わらず、その母親の屍体は傷一つ見当たらなかったのだが、自分の観た悪夢の通りに母親が亡くなっているという事実に打ちのめされている謙也にそんな事を観察するような余裕は無かった。
こんなん、頼むから夢であってくれ、と余りの衝撃に泣く事も出来ず、呻くように願いながら書斎へと足を向けると、居間と同じように全体を赤く模様替えしてしまったかの様な部屋の中心の床の上に、父親の遺体がこれまた母親と同じく傷一つ見当たらない姿で両手を胸の上で組んで仰向けに寝かされていた。
何で……と呟きながら後退りして出た書斎のすぐ傍の廊下では、血の海の中、壁に凭れ掛かる体勢で頭を下げて息を引き取っている弟と、首が有り得ない方向へ捻じ曲げられてピクリとも動かなくなっているペットのイグアナの亡骸が並べられていて、謙也はガックリとその場に屈み込むと、大声を上げて泣き始めた。
「何で、何でなんや!?何で俺の家族が殺されなあかんねん!?」
ドンドンと床を叩きながら、この惨劇の犯人に向かって問い掛けるが、当たり前の様に答えは返って来ない。
だが、今の謙也はそうやって叫ぶ事で、家族を失った痛みで壊れそうになる心を守るしかなかった。
叫んで叫んで叫んで、声が枯れる程に叫んだ謙也は、突然、先程鬼門の群れの中に残して来てしまった光の事を思い出す。
此処迄、多少の差異はあれども、あのほぼ『悪夢』と同じ様に家族が殺されていた。まさか彼もまた、あの『悪夢』の様に、俺の部屋の中で殺されてしまっているのではないか。
「財前……ッ」
彼を思った謙也は、転げまろびつ階段を駆け上がると、二階の自分の部屋へと飛び込んだ。
だが、謙也の自室は、まるで他の場所の惨劇が嘘の様に普段と変わらない姿をしていた。だが、其処には、夕日を背にして、まるで自分を待っていたかの様に立つ人影があった。
逆光でその顔は見えなかったが、それが誰なのか、謙也は本能的に理解していた。だが、自信が持てない。
「だ、れ……や?」
「謙也」
自分の名を呼ぶ柔らかなその声は、聞き覚えの在る物。懐かしく、胸を締め付けてくるこの声の持主は。