愛など囁けぬ唇
今更でしょう?
恋だと、気付いた時、それが報われないものだと知った。
(今日の天気は曇り時々雨)
ふらりと傾いた身体を冷たいコンクリートの壁が支える。(痛い)殴られることに慣れていない身体は容易く傷を作り些細なことでも痛みを見出す。(今度、誰かに受け身とか教えてもらおう、かな)幸い口の中は切れていないけれど、相手が指輪をしていたせいか、頬に切り傷が付いてしまった。絆創膏では隠せない大きさで、またガーゼの世話になるのかとため息を吐く。せっかく前の傷が癒えた頃だったのに。
暴行を受けることに、怯え恐れた自分は、もういない。
その事実が少しだけ寂しくて、でもどうでもよくて、帝人はポケットから携帯を取り出し、慣れた仕草でメールを手早く打った。相手の顔の写真はとうの昔に送っている。後は、後輩がどう処理するか。
囮を買って出た時の不満げな顔を思い出して、帝人は笑みを零す。
(貴方がしなくても)後輩は大きな眸で帝人を見据えながら言った。確かに脆弱な自分では下手したら入院沙汰になるかもしれない。それでも帝人は譲らなかった。自分でもどうしてかはわからなかったけれど、帝人は囮になることを望んだ。最終的には後輩も折れ、今に至る。
手の中にあった携帯が震え、メールを受信を知らせる。開けば『了解』と言う文字と『早く帰って手当てしてください』と続けられた文字。怪我してること前提なんだなぁと見透かされてしまっていたことに帝人は苦笑した。
コンクリートの壁から身を離し、放り投げられていた鞄を取る。申し訳程度に汚れを払ってから、いつものように肩に掛けようとしたが、ズキンッと痛みが走り眉を顰めた。肩、というよりは背中を痛めたのかもしれない。(湿布とか貼りづらいんだよなぁ、背中って。でも放置してたら青葉くん怒るし)どうしようかと自分のことなのに他人事のように思いながら、薄暗い路地を出る。
人通りのある場所に出てから数分も経たないうちに、黒い雲が犇めいていた空から雫が落ちてきた。ああ、間に合わなかったかと思いつつも、降り注ぐ雨に駆けて行く人に次から次へと追い越されながら、帝人は速度を変えずにゆったりと歩いた。念の為、ズボンのポケットに入れていた携帯を鞄の中に仕舞う。
どこかで雨宿りするつもりも、傘を買うつもりもない。雨に濡れながら、歩き慣れたアパートまでの道をただ進んだ。
(明日が休みで良かった)
けぶる視界。貼りつくシャツ。水滴が目に入るたびに、瞬きを繰り返す。
雨に、打たれるのは嫌いではない。むしろ好きなほうだ。小さい頃は、わざと傘を使わずに雨の中を帰ってきては親に怒られる、そんな子供だった。(そういえば、正臣もそんなだった)二人して泥だらけになって、雨の中を遊んで。でもやっぱり俺は晴れが好きだなって太陽のような笑顔で言っていた。目を伏せ、口端をゆるりと上げた。思い出に縋るなんて、本当に僕はまだ弱い。もっと、強く、なりたい。
(俺は暴力が嫌いだ)
ふと、幼馴染と同じ金色を纏ったあのひとの声が過る。
帝人が焦がれ欲する力を持つ人。けれどその力のせいで嘆き傷つき苦しんでいる人。愚かな帝人はその人に羨ましさと妬ましさと憧れを抱いていた。彼が本当は穏やかで優しい人だと知ってなお、その想いは強くなった。
まるで澱のように帝人の中で浸食し増え続けた想いが、恋なのだと気付いたと同時に、帝人はそれが永遠に報われないことを悟った。
「 竜ヶ峰 」
ほとりと落とされた声に、帝人は瞬いていた目を見開く。思い描いていた金色が雨のカーテンの中鮮やかに映る。雨で冷えた唇を震わせて、帝人は吐息を零すように、彼の名を呟いた。
「―――静雄、さん」