愛など囁けぬ唇
白いシャツに隠された頼りない身体を雨によって浮きだたせながら、少年は静雄の名を呼んだ。
見つけたのは偶然だった。
仕事の帰りに、トムに「雨降っから」と渡された傘を差して家路を歩いていた時、前方から雨に打たれてるくせに、のんびりと歩く学生に目を止めた。突然の雨で走り出す人間が多い中で、変に目立つその姿を静雄は訝しげに見つめ、そしてサングラスの下の目を瞠った。しかしすぐに我に返ると、大股で学生に駆け寄る。
ぼんやりと伏せていた顔が上がる前に少年の名を呼んだ。少年は静雄を見て、大きな眸を見開き、小さな声で「静雄さん」と呟いた。
「お前ッ、びしょ濡れじゃねぇか!」
「え、・・・・あの、だって、突然降ってきて、傘無かったし」
「雨宿りしなかったのか」
「・・・・・早く、帰りたかったので」
そう言ってぎこちなく笑う頬に付いた傷を見つけ、静雄の眉間に皺が寄った。
「その傷、どうした」
唸るように言えば、帝人は今思い出したかのように白い手でさっと隠す。だが、どう考えても無駄でしかない行為に、困ったように笑い、「ちょっと絡まれて」と告げた。
「・・・・またか」
帝人は肯定も否定もせず、笑みだけを保った。
何時からかは忘れた。けれどそんなに前からじゃないことはわかる。あどけない顔に残る痛々しい傷や痣。癒えるたびに付けられるのか、ガーゼや絆創膏が彼の顔から消えたことは無かった。
最初見た時は、転んだのだと帝人は言った。次は体育の授業で、と。しかし一向に治るどころか増える傷痕に、帝人は漸く「絡まれただけです」とそれだけを言った。
誰がこんなことを、誰にやられたかと静雄やセルティが尋ねるたびに、帝人は首を傾げ、知らないひとですと困ったように笑っていた。
そう、今のように、笑っていた。
「今日のも、知らない奴らだったのか」
「・・・はい」
「本当なんだな」
「はい」
傘の柄を握り潰さんばかりに威圧を発する静雄に対し、帝人は臆することなく穏やかに応える。募る苛立ちに静雄が舌打ちしても帝人はやはり苦笑するだけだ。
埒が明かない。そう思った静雄は、その細い腕を掴み引っぱった。「わ、わ」と声が上がったが無視をして、そのまま歩きだす。
「し、静雄さんっ、どこに」
「俺んち」
「え、」
顔だけ振り返る。雨に濡れた顔が、静雄を呆然と見上げていた。それを一瞥だけして、顔を戻す。そうでもしないと、言いたくない暴言を少年に浴びせてしまいそうだったからだ。
「手当てしてやる。お前んちでもいいけど、ここからじゃ俺んとこのが近いからな」
「そんなっ、別にいいで、」
「いいからっ、・・・・・・いいから黙って付いてこい」
「・・・・・静雄さん」
懇願めいた音に、帝人は名をぽつりと呼んだ後は、諦めたのか静雄の部屋に付くまで黙って腕を引かれたままだった。
(本当は知っていた。お前が笑って嘘の吐ける人間だったと)