機織り女
「機織り女」
とんとん からり とん からり
人里離れた山奥に、機織りの音が軽やかに響く。
時は夕暮れ。空は鮮やかな朱に染まり、烏の群れが、点々と黒い点のような影を落とす。茂る木々は既に宵闇の色に変わり、辺りの静けさと相俟って、不気味な雰囲気を醸し出していた。
草に半ば埋もれかけた細い山道は、人どころか、獣すら通る気配すらない。
そんな寂しい風景の中、機を織る音だけが、絶え間なく続いている。
とんとん からり とん からり
音は、山林の間にひっそりと建つ、小さな家から聞こえていた。
こじんまりとした木の造りのその家は、粗末で、廃小屋と見紛うばかりに古びている。長年風雨に晒されてきたとおぼしき屋根や壁は、どことなく黒ずんでおり、嵐の一つでも来れば簡単に吹き飛んでしまいそうだ。人が住むには、あまりにも頼りない風情である。
機織りの音が、窓から漏れる明かりがなければ、無人と思われたに違いない。
とんとん からり とん からり
薄汚れ、ところどころに破れた箇所のある窓の障子には、ゆらゆら揺れる明かりと織り機の影が落ちていた。大きな織り機とは対照的な女の細い手が、からからという音と共に右に左に動き、とんとんと機を織る。
陽は西の山の端へと沈み、辺りはとっぷりと暗く夜の闇に沈んでいるのに、女は仕事を辞めようとしない。
あくまでも軽やかに、まるで歌うように、機織りの奏でる音が響く。
と、その時、
がたり
戸が開けられる音がした。それとほぼ同時に、機織りの音がぴたりと止む。
「お帰りなさい、お前さん」
出迎える女の声が、これ以上無い程の喜びにあふれる。しばしの間、家からは楽しげな女の声が聞かれた。
十数分後。家の中で、どさりと、重い音がした。
「――お前さんの帰りを、ずっと待っているのに」
女の声が、ひどく恨めしげな声に変わった。
戸口を開け放したまま、土間に、壮年の男がうつ伏せに倒れている。そのすぐそばに、瓜実顔も涼しげな、ニ十代後半くらいの和服姿の美しい女が、見下ろすように立っていた。
女が、ことりと首を傾げる。それに合わせて、長いみどりの黒髪が一房、さらりと肩の上に落ちた。
「待っている間に、お前さんのために新しい着物も仕立てたのに」
倒れている男も、佇む女も、同じ紗の織りの、薄水色の小紋をまとっている。
が、一分の隙もなく女が和服を着こなしているのに対し、男は、ワイシャツの上に着物を羽織り、足はくたびれた革靴を履いたままという、ひどく珍妙な格好をしていた。
整髪料で整えた白髪混じりの頭は乱れ、わずかに見える顔は血の気を失っている。傍らには、投げ出された黒い革の鞄と、濃い茶色の定期券入れ。
「なのに、お前さんは……!」
淡々と喋っていた声に、静かな怒りの色が混じり始めた。
ゆらりと明かりが揺れたと同時に、束ねていた女の髪が、ひとりでに解ける。女が腰を落とすと、髪がさらりと前に落ちて、まるで獲物を呑み込まんとする無数の黒い手のように、男の上に覆いかぶさった。が、男は倒れたまま、ぴくりとも動かない。
女が、切れ長の目をつっと細める。白い手が、男の背筋をたどり、首元へと届く。
くっと屈み込んだと同時に、髪が更にさらさらとこぼれて、男の背中を包み込んだ。
そして、女は――
「そこまでだ」
唐突にかけられた声に、女の動きがぴたりと止まる。
ゆっくりと女が振り向くと、明かりを置いていた窓辺に、一人の少年が立っていた。
着古した学童服に黒と黄のちゃんちゃんこを羽織り、手には、窓辺の行灯から出したと思われる、小さな秉燭(ひょうそく)を持っている。肩口まで伸ばした髪は顔の半分をも覆い、あどけない容貌とは裏腹に、一種異様な雰囲気を漂わせている。片方だけ見える丸い目には何の感情も浮かんでおらず、その瞳は、窓の向こうの宵闇よりも深い闇を思わせた。
からんころんと鳴る下駄の音を連れて、少年が近付く。その姿を見据えながら、女ものろりと立ち上がった。
「招きもせぬのに押しかけるとは、行儀が悪い子だねぇ。それも、窓から入って来るなんて」
「元より僕は、ここに招かれるはずもないからね。だから、勝手に入らせてもらったよ」
「そうかい。よく分かってるじゃないか――ゲゲゲの鬼太郎」
女がその名を口にした途端に、辺りの空気が一気に冷えた。
僕を知ってるのか。そう問うた少年に、女は紅い唇を笑みの形に歪め、「知っているとも」と答えた。
「妖怪の身でありながら、同じ妖怪を平気で殺める鬼の子を、知らぬはずがないだろう。
それとも何かい。人間どもにそう嘯くように、ここでも正義がどうとか寝言を言うつもりかえ?」
意味ありげに微笑みかける女に対し、鬼太郎はあくまで無表情。隻眼でひたりと相手を見据え、微動だにしない。行灯から出し、胸の高さに持った秉燭の投げる光が、彼の顔に濃い陰影を刻み、余計にその心中を量りにくくしている。挑むような眼差しを真正面から受けて立ち、じっと見据えるのみ。
水を打ったような静けさの中、女の長い髪だけが、風もないのにさわさわと小さく揺れる。まるで生きて自らの方へと招くようなその蠢きは、女の表情や佇まいと相俟って、ぞっとする程艶めかしい。
鬼太郎の持つ小さな明かりは、女の全身を照らすにはあまりに光が弱い。故に、女の姿は半端にしか照らされず、半ば背後の闇に融けているようである。もっとも、女の目も、鬼太郎の目も、暗さなど全く問題にならないが。
じじじっと、灯芯の燃える音がする。底冷えするような沈黙の中、先に視線を外したのは、女の方だった。
「からかい甲斐がないねぇ。ちょっとは怒るなりすればいいのに。まだ子供のくせに、可愛げのない」
あからさまに不機嫌そうに口を尖らせた女に対しても、鬼太郎は態度を変えない。表情と同じく無感情な声で、「言われ慣れてるからね」とだけ答えた。
そして、倒れている男のそばにすっと屈み込み、様子を伺う。首筋に手を当てて脈を取り、気絶しているだけであるのを確認すると、顔だけを女の方に向け、口を開いた。
「この人はお前の待ち人じゃない。返してもらうよ」
明かりを土間の上に直に置き、至極冷静な声でそう言い放つ。
その様を目にし、女は、ふんと鼻を鳴らしながらそっぽを向いた。
「人違いなのは分かったよ。あの人は、こんな男とは違うからねぇ」
「そう言いながら、今まで何人もこうして捕らえてきたのか」
「妾(あたし)はただ、機を織りながらあの人を待ってるだけさ。こいつらの方が、勝手にここへ入って来るんだよ。
勝手に来た無粋な男に仕置きして、何が悪いって言うんだい?」
「よく言うよ。人間界のあんなすぐそばに、堂々と入り口を開けておいて」
「普通なら気付かないだろうさ。ここへの道は、あの人のためだけにあるんだから」
ここには居らぬ相手を思い浮かべたのか、彼方へと向けられた女の眼がにわかに熱を帯びる。ほうっと息を吐くと、蠢いていた髪の動きが少し小さくなった。
やれやれ、と首を振りながら、鬼太郎が立ち上がる。床に置かれたままの明かりが土間に刻む影が大きくなり、半分以上が周囲の闇と混じり合う。
とんとん からり とん からり
人里離れた山奥に、機織りの音が軽やかに響く。
時は夕暮れ。空は鮮やかな朱に染まり、烏の群れが、点々と黒い点のような影を落とす。茂る木々は既に宵闇の色に変わり、辺りの静けさと相俟って、不気味な雰囲気を醸し出していた。
草に半ば埋もれかけた細い山道は、人どころか、獣すら通る気配すらない。
そんな寂しい風景の中、機を織る音だけが、絶え間なく続いている。
とんとん からり とん からり
音は、山林の間にひっそりと建つ、小さな家から聞こえていた。
こじんまりとした木の造りのその家は、粗末で、廃小屋と見紛うばかりに古びている。長年風雨に晒されてきたとおぼしき屋根や壁は、どことなく黒ずんでおり、嵐の一つでも来れば簡単に吹き飛んでしまいそうだ。人が住むには、あまりにも頼りない風情である。
機織りの音が、窓から漏れる明かりがなければ、無人と思われたに違いない。
とんとん からり とん からり
薄汚れ、ところどころに破れた箇所のある窓の障子には、ゆらゆら揺れる明かりと織り機の影が落ちていた。大きな織り機とは対照的な女の細い手が、からからという音と共に右に左に動き、とんとんと機を織る。
陽は西の山の端へと沈み、辺りはとっぷりと暗く夜の闇に沈んでいるのに、女は仕事を辞めようとしない。
あくまでも軽やかに、まるで歌うように、機織りの奏でる音が響く。
と、その時、
がたり
戸が開けられる音がした。それとほぼ同時に、機織りの音がぴたりと止む。
「お帰りなさい、お前さん」
出迎える女の声が、これ以上無い程の喜びにあふれる。しばしの間、家からは楽しげな女の声が聞かれた。
十数分後。家の中で、どさりと、重い音がした。
「――お前さんの帰りを、ずっと待っているのに」
女の声が、ひどく恨めしげな声に変わった。
戸口を開け放したまま、土間に、壮年の男がうつ伏せに倒れている。そのすぐそばに、瓜実顔も涼しげな、ニ十代後半くらいの和服姿の美しい女が、見下ろすように立っていた。
女が、ことりと首を傾げる。それに合わせて、長いみどりの黒髪が一房、さらりと肩の上に落ちた。
「待っている間に、お前さんのために新しい着物も仕立てたのに」
倒れている男も、佇む女も、同じ紗の織りの、薄水色の小紋をまとっている。
が、一分の隙もなく女が和服を着こなしているのに対し、男は、ワイシャツの上に着物を羽織り、足はくたびれた革靴を履いたままという、ひどく珍妙な格好をしていた。
整髪料で整えた白髪混じりの頭は乱れ、わずかに見える顔は血の気を失っている。傍らには、投げ出された黒い革の鞄と、濃い茶色の定期券入れ。
「なのに、お前さんは……!」
淡々と喋っていた声に、静かな怒りの色が混じり始めた。
ゆらりと明かりが揺れたと同時に、束ねていた女の髪が、ひとりでに解ける。女が腰を落とすと、髪がさらりと前に落ちて、まるで獲物を呑み込まんとする無数の黒い手のように、男の上に覆いかぶさった。が、男は倒れたまま、ぴくりとも動かない。
女が、切れ長の目をつっと細める。白い手が、男の背筋をたどり、首元へと届く。
くっと屈み込んだと同時に、髪が更にさらさらとこぼれて、男の背中を包み込んだ。
そして、女は――
「そこまでだ」
唐突にかけられた声に、女の動きがぴたりと止まる。
ゆっくりと女が振り向くと、明かりを置いていた窓辺に、一人の少年が立っていた。
着古した学童服に黒と黄のちゃんちゃんこを羽織り、手には、窓辺の行灯から出したと思われる、小さな秉燭(ひょうそく)を持っている。肩口まで伸ばした髪は顔の半分をも覆い、あどけない容貌とは裏腹に、一種異様な雰囲気を漂わせている。片方だけ見える丸い目には何の感情も浮かんでおらず、その瞳は、窓の向こうの宵闇よりも深い闇を思わせた。
からんころんと鳴る下駄の音を連れて、少年が近付く。その姿を見据えながら、女ものろりと立ち上がった。
「招きもせぬのに押しかけるとは、行儀が悪い子だねぇ。それも、窓から入って来るなんて」
「元より僕は、ここに招かれるはずもないからね。だから、勝手に入らせてもらったよ」
「そうかい。よく分かってるじゃないか――ゲゲゲの鬼太郎」
女がその名を口にした途端に、辺りの空気が一気に冷えた。
僕を知ってるのか。そう問うた少年に、女は紅い唇を笑みの形に歪め、「知っているとも」と答えた。
「妖怪の身でありながら、同じ妖怪を平気で殺める鬼の子を、知らぬはずがないだろう。
それとも何かい。人間どもにそう嘯くように、ここでも正義がどうとか寝言を言うつもりかえ?」
意味ありげに微笑みかける女に対し、鬼太郎はあくまで無表情。隻眼でひたりと相手を見据え、微動だにしない。行灯から出し、胸の高さに持った秉燭の投げる光が、彼の顔に濃い陰影を刻み、余計にその心中を量りにくくしている。挑むような眼差しを真正面から受けて立ち、じっと見据えるのみ。
水を打ったような静けさの中、女の長い髪だけが、風もないのにさわさわと小さく揺れる。まるで生きて自らの方へと招くようなその蠢きは、女の表情や佇まいと相俟って、ぞっとする程艶めかしい。
鬼太郎の持つ小さな明かりは、女の全身を照らすにはあまりに光が弱い。故に、女の姿は半端にしか照らされず、半ば背後の闇に融けているようである。もっとも、女の目も、鬼太郎の目も、暗さなど全く問題にならないが。
じじじっと、灯芯の燃える音がする。底冷えするような沈黙の中、先に視線を外したのは、女の方だった。
「からかい甲斐がないねぇ。ちょっとは怒るなりすればいいのに。まだ子供のくせに、可愛げのない」
あからさまに不機嫌そうに口を尖らせた女に対しても、鬼太郎は態度を変えない。表情と同じく無感情な声で、「言われ慣れてるからね」とだけ答えた。
そして、倒れている男のそばにすっと屈み込み、様子を伺う。首筋に手を当てて脈を取り、気絶しているだけであるのを確認すると、顔だけを女の方に向け、口を開いた。
「この人はお前の待ち人じゃない。返してもらうよ」
明かりを土間の上に直に置き、至極冷静な声でそう言い放つ。
その様を目にし、女は、ふんと鼻を鳴らしながらそっぽを向いた。
「人違いなのは分かったよ。あの人は、こんな男とは違うからねぇ」
「そう言いながら、今まで何人もこうして捕らえてきたのか」
「妾(あたし)はただ、機を織りながらあの人を待ってるだけさ。こいつらの方が、勝手にここへ入って来るんだよ。
勝手に来た無粋な男に仕置きして、何が悪いって言うんだい?」
「よく言うよ。人間界のあんなすぐそばに、堂々と入り口を開けておいて」
「普通なら気付かないだろうさ。ここへの道は、あの人のためだけにあるんだから」
ここには居らぬ相手を思い浮かべたのか、彼方へと向けられた女の眼がにわかに熱を帯びる。ほうっと息を吐くと、蠢いていた髪の動きが少し小さくなった。
やれやれ、と首を振りながら、鬼太郎が立ち上がる。床に置かれたままの明かりが土間に刻む影が大きくなり、半分以上が周囲の闇と混じり合う。