機織り女
「そういうけどお前、その人の顔をちゃんと覚えているかい?」続けて放たれた言葉もまた、勝るとも劣らぬ威力で女を射る。
勿論さ、と答えようとして、女は、すぐにはその顔が思い出せない事実に気付き、愕然とした。待った年月が、あまりに長過ぎたのか。ずっと、その男だけを愛しているはずなのに。
が、女も簡単には退かない。ふうっと大きく息を吐いた後に、こう言った。
「子供と言ったのは撤回するよ。お前は、やはり男だね。
まだ幼くとも、待たせる性(さが)をしっかりその身に持ってる。ああ、厭だ厭だ」
「急に何を。僕には、待たせる人なんかいないよ」
「男は皆そう言うんだよ。その一言が、女を踏みにじっているとも知らずに」
女が、くっと笑う。
その表情には、先程垣間見せた怯えや動揺は、既に影も形もなく。
「そんな風に澄ましている顔が、一番性質が悪いんだよ。
女が待つのも、待つ間に何を想っているかも、自分には関係ないって顔でさ」
「………………」
「男はいつだってそうさ。好きなだけ外へ出て行って、待つ女の事など気にも止めない。
待つ身にとっちゃ、まさに一日千秋だってのに。待ち焦がれる想いは何よりも辛いのに、男ははなから分かろうとしない」
「………………」
「ましてや、正義面で同族を手にかけるお前の事だ。その傲慢さで、気軽に『待っててくれ』と口にするのだろう。
お前を待とうなんて物好きがいるかは知らないけど、そいつは間違いなく不幸せになるねえ。血も涙もない鬼の子に、待つ者の心情を推し量る度量どころか、待たせて悪いと思う気持ちも無かろうから」
「………………」
「行く先々で手を血に染めて、その道行きで味方も踏みにじって、鬼の子は何処まで往くのやら。
父親が閻魔大王と懇意でさえなければ、お前などとっくに地獄の責め苦を受けていように」
「……言いたい事は、それだけかい?」
長台詞に辟易したのか、鬼太郎の返答に呆れた響きが混じった。
ふうっと大きなため息を吐いて、妖力で髪を長く伸ばす。慌てた女が同じく髪を伸ばして抵抗するが、絡み合ったのは一瞬だけ。数秒も保たずに跳ね除けられ、女は、あっという間に捕らえられた。
じたばたと女がもがく度に、着物の袖がたゆたゆと揺れる。が、鬼太郎の髪の拘束は解けず、逆に四肢がぐっと締め上げられる。右の手首が最初に折れて、かくり、と力なく傾いた。
しゅるしゅると更に伸びる髪が己の首にかかっても、悲鳴一つ上げないのは、女の最後の意地なのか。死の恐怖に慄きながらも、女は「図星だったかい、だから妾を殺すんだね」と言って、勝ち誇ったような壮絶な笑みを浮かべた。
が、鬼太郎はやはり表情一つ変えず、淡々とした口調で、
「違うよ。
お前は、やり過ぎたんだ。ここまで来ると流石に、僕も知らん顔が出来ない」
と答えた。
笑みを浮かべていた女の顔が、そのままの形で強張る。それとほぼ同時に、女を縛り上げる髪の上で、幾筋もの青白い稲妻が、火花を散らした。
その数分後。山中を模した異世界に、大きな雷鳴が轟いた。
「……全く、好き勝手言ってくれて」
再び点された行灯の明かりの元、鬼太郎は、小声でそう吐き捨てた。
危うく喰われかけていたあの男は、既に人間世界へと帰っている。幸い、女と鬼太郎のやり取りなど全く知らず、目覚めた途端、着物を脱ぎ捨てて一目散に逃げ出した。鞄を忘れて行ったので、後で届けてやらねばなるまい。
人間界へと続く道は一本道で、予め鬼太郎が片付けておいたから、何の危険も無い筈だ。今頃は、家族と再会出来ているだろうか。
もし女に、待つ辛さが真に理解出来ていたならば、そもそも誰かを浚って喰おうなどとは思うまい。どれだけ言い繕おうが、所詮はただの身勝手なのだ。まともに取り合う価値もない。
「お前だって、僕の事を何も知らないくせに」
佇む鬼太郎の足元には、焼け焦げた小さな蜘蛛の屍骸が一つ落ちていた。
最後まで口数の多かった妖しの機織り女は、絶命する直前まで言いたい放題で、首を絞められてよく喋れるものだと、鬼太郎も思わず感心した程だった。その成れの果ては、ひどく惨めな物であるが。
死んで生まれ変わってあの人に逢うと、女は最後に言っていた。この想いがお前に分かるまい、とも。
分かる筈も無かろう。六道輪廻の道から外れた妖怪は、そも生まれ変わりなぞ無縁である。それは、人ならざる者へ変化したあの女も同じ。どれだけ執念深く求めようが、望みは決して叶わない。
その理を知ってて、何故に叶う筈の無い事を望もうか。鬼太郎は残念ながら、そこまで愚かにはなれない。
それに。
(生憎僕は、ちょっとした留守番以外には『待っててくれ』なんて言わないし、ただ出て行くばかりの身でもないよ――)
山の奥から、かすかに地鳴りの音がする。恐らく女が死んだ事によって、この空間がバランスを崩し始めたのだろう。この分だと、わざわざ手を下さずとも、勝手にこの場所は崩壊する。
巻き込まれないうちに自分も帰ろうか。踵を返しかけて、鬼太郎の目はふと、家中に散乱する着物や反物、帯の上に止まった。
女がいた間はそちらに気を取られて、そんな物がある事にすら気付かなかったが、よく見ればどれも大変美しい。
唐紅、蘇芳、茜色、鬱金、生成、青柳、薄縹に花浅葱に江戸紫。織り込まれている柄も、花や雪輪模様といった季節の物や、鳥や蝶等が舞っている物、昔ながらの伝統模様もあったり、まさに多種多様である。着物にはいまいち無頓着な鬼太郎にも、綺麗な物だと感じられた。織り機にかかった反物も、藤色の唐草模様だった。
持って帰れば喜ばれるか。そう思い、鬼太郎はそちらへと足を踏み出しかけて――すぐに思い直し、行灯から再び秉燭を取り出して、着物の山へと投げ放った。
油のかかった箇所から燃え始め、やがて他の着物へと火が移る。次第に勢いを増してゆく炎の中で、織物は次々と焼けて縮れて、美しい色を失っていった。それを背にして、鬼太郎もさっさと家の外へ出る。
真っ暗闇の異世界で、紅蓮の炎が舞い踊る。家全体が火に包まれ、一層大きくなった山の鳴動の中で焼け落ちていくのを確かめた後に、鬼太郎も無言で、帰路に就いた。
待つ辛さは女だけの物だなんて、分かっていないにも程がある。
そんな機織り女の着物など、きっとあの子には似合わない。
からんころんと鳴る下駄の音が、底無しに深い闇の中へと、吸い込まれるように消えていった。