悪意在ル私的見解
よくよく観察してみれば、跡部景吾とは非常に良く出来た人間なのだということが判る。
それは、世間で云う見た目の良し悪しだとか、成績優秀さだとかテニスの腕前だとか云うことではなく、その、奇抜な言動に見え隠れする、酷くバランスの取れた精神の在りようだった。
テニスにおいても、私生活においても、類まれな洞察力で見抜き、優れた情報処理能力で適切な処置を施す様はまさに帝王の名に相応しく、一部の隙もない。
常に余裕の笑みを浮かべ、確固たる信念と絶対的なまでに揺るがぬ自信に支えられた矜持を覆せる者はなく、ただ、それに平伏した人間を傲然と睥睨する。凄然とした独裁者のように。
面白いことに他の者は、たかだか自分達と立場は変わらぬ一生徒に過ぎない彼の意思に、逆らおうという気は存在しないらしく、それがどれ程高圧的な命令であろうと、諾々と従うのだ。
例えば、こんな事例がある。
穏やかな昼下がり、優しい春の陽光が降り注ぐカフェテリアで、いつものレギュラー面子で昼食をとっている最中、それは起こった。
突然、入り口付近が怒号に包まれる。
「――――っ、なになに?何の騒ぎだよ?」
ちょうど、ホットサンドを口に入れた処で騒ぎが起こり、岳人は危うく喉に詰まらせてしまう処だった。岳人だけでなく、宍戸や鳳たちも酷く驚いて喧騒を眺めている。
勿論自分も驚いてはいたが、それよりもこの騒ぎの原因が気になった。暫く成り行きを見ていると、日頃から折り合いの悪かった連中が中心になって啀み合っているのが見える。
比較的裕福な家の子供が通うこの学園にも、意外と諍いの種は転がっているものだ。普段は鷹揚な彼らだが、一貫教育の弊害ともいえる排他的な人間関係が生み出す揉め事は、頻繁ではないにしろままあることである。
判り易く云えば内部正と外部正の確執。
幼稚舎から通う内部正はぬるま湯の環境に慣れきって急な変化を嫌い、この学園の多数派であることを強みに中途編入学者達を差別する傾向にあった。
また反対に、外部正たちも敵視してくる人間に寛容になれる筈もなく、同じ境遇の者たちと徒党を組むようなことがない代わりに、それぞれが自分たちの存在を主張するように、各分野において際立った能力を発揮し見せ付けた。お互い表立って事を荒立てることはなかったが、水面下では冷やかな派閥争いが行われていることは公然と黙認されている。
学園側としても、この事が学園自体の推進力を促進していることも否定できず、公的な不祥事を起こさない限り沈黙を続けるという日和見的な態度を崩さなかった。
しかしそれも五月までのことだ。何故ならその頃には生徒会主催で行われるクラス対抗の球技大会があるからだ。勝敗を前に普段の軋轢など吹き飛ぶらしく――まあ、優勝クラスには豪華得点がつくので当然ともいえる――、一致団結の元に終結するのである。どの後、以前の険悪さなどなかったように良好な関係を持続させていく。
単純といえばそれまでだが、所詮、基本が飼い馴らされた牧羊気質なのだからそんなものだろう。
往々にして個人差はあれど、大体が通る通過儀礼のようなものだ。一定期間、内部正のアレルギーをやり過ごせば、あとはどうにでもなる。
しかし、今眼の前で起こっていることは、常の他愛のない争いから度を越していて気の短い宍戸でなくても、思わず眉を顰める程度にはあからさま過ぎた。
(なんも食事時にやんでもええのに……)
正直、何処の誰が何をしようとどうでもいいのだが、折角の食事中に埃が立つような真似をして欲しくないというのが本音だ。
心持ち不愉快気に眼を眇めると、同じようなことを思ったらしい慈郎が眠たそうにぼやいた。
「どっか他所でやったらいいのに」
同感だと思いながら、慈郎の拗ねたように口を尖らせた幼い表情を視界の端に認める。
そんなことを考えている間にも、状況は益々エスカレートしていく。最初はただの口喧嘩だったものが、今はグループ同士の争いへと発展していた。
互いの間にテーブルがなければ、即殴り合いに発展しそうな気配。しかし、上手い具合に歯止めになっているそのテーブルも彼らの様子ではあまり持ち堪えそうになかった。
「なあ、あんまり長引くようなら不味いんじゃねえ?」
口の周りに小さな食べ滓を付けた岳人が、身を乗り出して話しかけてくる。その汚れを払ってやりながら、
「まあ、問題ないんとちゃう」
相方を安心させるように、取り立てて気負わず答えてやった。
「なんでさ?」
素直といえば聞こえはいいが、単純に過ぎる相方は再び疑問を投げかける。
あっさり答えてやってもいいけれど、少しは自分で物を考えることも覚えさせないといけないかもしれない。
そんな風にあい方への今後の躾け方について暫し自問していると、横合いから慈郎が正解を投げた。
「そろそろ跡部が来るからだよ」
そういうことでしょ?
こちらを窺うように、上目遣いで確認してくる慈郎に苦笑う。
「なんでなんで?どうしてどうして」
岳人はそれでも判らなかったらしく、子供のように詳細をねだってくる。
(やっぱり、たまには頭を使うことを覚えさせなあかんな)
こっそり溜息を洩らしつつ、促してみせた。
「そろそろ来るやろうし、ええから見とき。来たら嫌でも判るて」
云いながら入り口付近を見ると、気付いた生徒から息を呑み押し黙り始めたのが見える。
どうやら噂の主が現れたらしい。次第に、入り口から波紋のように沈黙が広がっていく。周囲の変化に気付かず諍う、愚か者達を残して。
「さあて、羊飼いさんのお出ましやで」
面白くなってきた、という気持ちを込めた言葉に応えが被さった。
「洩れなく強面の牧羊犬も付いて来るぜ」
楽しそうに付け加えるのは宍戸。その向こうに見える鳳も似たような表情に苦さを混ぜて笑っている。
岳人も、そんな仲間の顔を見ている内に何かを察したのか、一人納得したように頷いている。慈郎は、いつの間にか眠ってしまっていた。
そして、主役が登場する。
ゆっくりと、半開きの扉に手をかけて姿を現す。
いつものように、背後には巨人を従えて。
決して狭くはないカフェテリア内を、視線だけが一周する。意識してはいないのだろうが、跡部の視線は常に鋭く、挑発的で見る者の正視を許さない。現に、一巡する視線と合わせないよう、己の目線を落とす者ばかりだ。確かめていくように、ゆったりと滑らせていた視線が自分達を認めて止まる。
その、自分達を見つけて浮かべる跡部の表情に、自分は一生慣れることはないだろう。
自分とは違う、琥珀の色彩に彩られた軽く風に靡く柔らかな髪。秀でた額に形よく吊り上った眉。淡く紫掛かる澄んだ碧眼は、いつに実力に裏打ちされた自信を宿し迷いのない力強さで他者を圧倒する。けれど、こういう時の跡部は厳しい眼差しを少し弛ませるのだ。その表情は、全体的に薄いがやや上唇より厚めの下唇の口角を引き上げることで、なんとも婀娜っぽい様相を呈すると感じるのは欲目というやつだろうか。
まあ、宍戸あたりには『無駄に偉そう』だとか云われているけれど。