悪意在ル私的見解
そんなことをぼんやり考えながら、跡部に向かって手を振りかけた時、盛大な音を立てて抑止力となっていたテーブルが倒れる。その上調子に乗った馬鹿が、傍にあったプレートを相手に投げつけた。
それは、馬鹿の思惑とは反対に狙った相手を大きく逸れ、あろうことか跡部に向かって飛んでいったのである。
よりにもよって、あの、跡部に。
声を掛ける間もなかった。
全員が眼を見開き、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
その中で妙に冷静な自分の眼には、その瞬間がまるでスロー掛かったようにゆっくりと映って見えた。
跡部は己に向かってくるプレートを、慌てることも取り乱すこともなく見つめ、僅かに顎を引く。プレートはそのまま跡部の傍を掠めて、丁度彼の首元あたりでドアにぶつかり割れ落ちた。
その音に、争っていた者達も我に返ってようやく己のしたことを理解したようで、蒼褪めたまま微動だにしない。先程の騒ぎとは裏腹に、痛いほどの静けさがその場を支配した。
それは、何ともいえぬ不思議な光景だった。
この場に居る全員が息を呑むことも瞬きをすることも忘れたかのように、たった一人だけを注視している。
生きる石像と化した生徒達の中で、盛大に彼らの視線を独り占めしている跡部だけが至って普通だった。
跡部はただ、騒ぎの中心にいた生徒達を僅かに見やっただけだった。けれど、その一瞬の視線にすら自覚のある者にとっては脅威になるらしく、酷く怯えた様子で視線を落ち着かなくさせている。
跡部はその様子に薄く嗤うと、おもむろに指を鳴らす。それを合図に後に控える樺地が無言で散らばる陶器の破片を片付け始め、他の生徒達も夢から覚めたように樺地に倣い周囲を片付け始めた。協力し合う者の中には、件の当事者達も混ざっている。だからといって、そのことに跡部は然したる関心も示すこともなく、いつも通り変わらぬ素振りでこちらに近付いてきた。
「さすがお前だな。いつもながら見事な悪役っぷりだぜ」
ゆったりと椅子に腰掛ける跡部に、宍戸がからかい混じりに声をかけた。しかしそれに対して跡部は鼻で哂うだけで、何も云わずに長い足を組んで寛ぐ。
「凄いです!一睨みで場を収めてしまうなんて。さすがは跡部部長、鶴の一声。まさにことわざの『地震・雷・火事・親父』を地で行ってかっこい……」
「おい跡部、お前怪我しとるやんか」
にこにこと、どこまでもずれた感想を述べる鳳を遮る。放っておくと延々ボケ倒したセリフを聞くことになるからだ。しかもそれはことわざでもなんでもないということにすら気付いてないのだから始末に負えない。おまけに評する言葉も間違っている。例えば多分に贔屓目を上乗せして「大岡裁き」、とでも云うべきだろう。喧嘩両成敗というところで。惜しむらくは跡部の場合、人徳というよりは恐怖政治に近いというところか。
そう考えたが今は鳳に構っている場合じゃない。それよりも跡部だ。
彼の白い首筋に、細く紅い傷跡が付いている。どうやらプレートが割れた際、小さな破片が跡部の長い首を掠めたようだ。薄く血が滲んでいる。
跡部は乱暴にその箇所を拭うと、その血の付いた指を、ぺろり、と舐めた。
その仕草に、あっさりと劣情を煽られたことは想像に難くない。簡単に欲情する自分もどうかと思うが、煽った張本人は自分が動揺したのを見抜いて、視線の先、えらく魅力的かつ悪辣な表情で哂っていた。
跡部景吾とは、そういう男である。
もう一つ、事例をあげよう。
「……遅えな、跡部のヤツ。部活始まらねえじゃねえか」
宍戸が隣で柔軟をしながらぶつぶつ文句を云っている。
レギュラーに無事返り咲いた宍戸は、早くラケットを振りたくてしょうがないらしい。今も、遅い遅いと云っては、跡部がやって来る方向を何度も確認している。その様子は、散歩に行きたいのに支度の遅い主人をそわそわ待ち構えている飼い犬のようだ。
本人には云わないけれど。面倒だから。
そんな宍戸を宥める鳳を気の毒に眺めていると、後ろから澱んだ空気を纏いつかせた岳人が現れた。
「ゆうしぃー…、おれ、今の内に逃亡してもいいかなあ」
眼も虚ろに、心なしか遠い声で喋る。
「どないしたん岳人。眼が死んでるで」
眼の前で掌を振って正気を確かめたが、岳人は昏い笑みを浮かべたまま。
(可哀想に、とうとう壊れたんやろか…………)
もう一度声を掛けようとすると、岳人は変わらない遠い声で爆弾を落とした。
「おれ、見ちゃったんだよね……。跡部が楽しそうに監督と話している現場を…………」
……………………。
その一言により、周囲の雰囲気が凍りつく。
岳人はもとより、先程まで跡部が来ることを心待ちにしていた宍戸も、それを面倒そうな顔もみせず宥めていた鳳も、そして自分も、一瞬のうちに恐怖とそれに伴う緊張感に侵された。
時が止まったような不気味な沈黙が流れる。
「…………な、何暗くなってんだよ。も、もしかしたらただ監督の冗談に笑ってただけかもしれないじゃねえか」
あからさまに引き攣った作り笑いを見せて、宍戸が誰にとも云えないフォローをする。
「そ、そうですよねっ!もしかして監督が一生に一度のギャグを云ったのかも」
宍戸の尻馬に乗るように鳳までもが同意するが、そんなことは地球の自転が逆回転したとしても有り得ないことだ。
そんなことは百も承知だろうに、二人は余程現実を見たくないらしい。だが、精一杯不安を飛ばそうと努力している二人に、一足早く現実を直視してしまった岳人が無情に告げた。
「跡部、閻魔帳持ってた…………」
その決定的な言葉にもはや否定することもできず、諦め悪く悪足掻きをしていた宍戸と鳳は見事なくらいに蒼褪め、すでに言葉を紡ごうとする気もないようだった。
岳人が云った『閻魔帳』とは、平たく云えば部のトレーニングメニューノートのことで、あまりに跡部が組むメニューが過酷なためいつしかそう呼ばれるようになったいわくつきの代物である。そしてそれは監督との『談合』により、更に死線をも越えるメニューとなるのだった。
そんな裏事情により、跡部がノートを持って監督と話していたということは、つまり…………
「決まりやな…………」
本日は監督と部長双方に、よってたかって殺されるということを意味している。
「オレ、もう一度お袋のメシ食べれんのかな…………」
岳人に続いて宍戸までもが、遠い世界の住人になりかけている。
「今日こそは覚悟しといた方がええかもしれんなあ……」
遺書、用意しとく?
「侑士、それマジしゃれなんねえから」
きっとみんなの脳裏には、これまでの地獄が思い起こされているのだろう。既に練習が始まる前から死地に足を踏み入れたような表情をしている。
ぼんやりと他人事のように考えてはいるが、自分だって跡部の、あの鬼のような仕打ちを免れるわけもなく、みんなと同じような目にあうことは必至なのだけれど、個人的にいつも挑発的で小憎たらしい表情しか浮かべない顔に、そういう時ばかり子供のような満面の笑みが浮かぶさまは微笑ましい気がして嫌いじゃなかったりする。まあ、あの顔が見られるならいいか、と。
「侑士、ぜってえ頭湧いてる」