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爪を切り損ねた

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爪を切り損ねた。秋の色の深くなり始めた、ある涼しい夜のことである。外をあたり一帯、夜闇の静けさが覆っていた。地面は褐色を保ったままかたく、珍しく雨が降った気配はない。すんと鼻を鳴らしながら、ルートヴィッヒはからからと窓を開けた。鼻をつくような雨の匂いがしない。いつもの濡れた土瀝青のような湿っぽいにおいのかわりに鼻腔を貫いたのは、夜風に揺れる薔薇の、濃密で甘い香りであった。ひょっとすると彼が大切に育てている、薔薇かもしれない。放った窓から、その香りを織り込んだ肌寒い風が時折、東の方から吹き込んでくる。彼の薔薇園は、ここから少し東へいった離れにひっそりと、あるらしい。訪ねたことはない。彼が月に幾度か世話やりのために薔薇園に出向くたび、とびきり美しく咲いていたのを、と一輪摘んできてくれるので、ぜひ今度薔薇園を見に行ってみたいと、いつだったか彼に問うたきりだ。彼はああもちろん、今度薔薇園にある全部の薔薇がとびきり美しく咲く季節になったら、きっと招待してやるよと、そう言っていたはずだのに。それからしばらくは彼の招待をひどく待ち遠しく思っていたものだが、彼はどうやら約束を忘れてしまったのか、本当にそれきりだった。だからルートヴィッヒも、ここ最近は彼の薔薇園に訪れることを、もうすっかり諦めてしまっている。
…おい、ルートヴィッヒ?かけられた声にハッと顔を上げて、ルートヴィッヒは振り返った。視線にとらえた男の、細く伸びた腕が乱暴に水滴の滴る髪を拭う。骨の浮いた白い腰にはきっちりとタオルを巻いている。そこの窓、閉めておけ。初秋でもこっちは寒いんだから。郷に入っては郷に従えと、言われるがままにルートヴィッヒはしゃんと窓に手をかけた。慣れたふうに鍵を閉める。ルートヴィッヒの鼻のあたりをもやもやと漂っていた薔薇の匂いが、一気に薄くなっていった。
ふと声もなく、ルートヴィッヒは長い指を彼の方へ向ける。何だ。と彼が間抜けた声を出す前に、ルートヴィッヒがそのことばを遮った。…少し伸びているんじゃないか?
カークランドの視線が、ゆっくりとルートヴィッヒの指を辿って、自らの足の指先に向けられる。しばらく、なにごとか考えるように黙り込んでいた。そうして彼の頭が少し上を向く。……ああ、本当だな、ここのところ忙しくて、すっかり切るのを忘れていたらしい。男が、瞳を細めてかすかに笑った。その笑みがどうしてだかわざとらしく見えたのは、偶然だったのだろうか。否、きっと偶然ではなかった。気付いた時には男との距離はとっくに縮まっていて、いやに優しい触れ方をしながら、彼の手が腕に巻きついてくる。…ならさあ、お前が切ってくれよ。



彼は上等そうな木材のチェアに腰をおろして、ルートヴィッヒのかたい太ももにとんと右足を置いた。無言で見下ろした先の、縦に範囲の広い爪。傷のない形のよい足の甲の辺。ひたひたとそこに触れる。人の足の爪など切ったこともないので、失敗しまいかと、ルートヴィッヒは考えていた。失敗して肉を切断、そういうことになってしまったら、始末をするのは自分である。避けるべき、否、避けなければならない。
…失敗して肉まで切ってもしらないからな、そうなっても始末はしないぞ。ハハ、別に構わないさ。渇いた笑いを上げるカークランドの細い体がかすかに揺れる。たゆたう石鹸と彼の体臭のまじった甘い匂いは、ルートヴィッヒの頭の中をじわじわと蝕んだ。体の芯の方が、ゆるやかな熱をおびはじめている。
男の視線ははそうしたルートヴィッヒの、几帳面そうにつむじに向かってなでつけられた髪のいっぽんいっぽんに、向かっている。男は肘掛からだらしなく落とした腕を億劫そうに持ち上げて、その糸のようにしなやかな細い髪を、愛おしそうに撫でてゆく。だだ広い部屋を灯す照明の、白熱灯の白い光に照らされて、その髪の色が彼の目にひどくまぶしい。きらきらと反射する白みがかった金色。お前は美しいな。不意にカークランドの口から、そういうことばが飛ぶ。すると、ルートヴィッヒの顔がかすかに上を向いた。…美しくなんか。カークランドの指が、そこまででそのひとのことばを制した。やや開かれたくちびるはまるで薔薇のように赤く、カークランドの網膜を焼く。くちびるに触れた手が熱い。コケティッシュなそのさまは、男の眠っていた加虐心をひどくゆすぶった。


ルートヴィッヒはイギリス製の、爪切りを手にして再びカークランドの足をひたひたと触り始める。親指の爪の先の白いところから、深爪を避けるように慎重に。パチン、と音を立てる。足に添えた左手に、無意識のうちに力がこもる。ルートヴィッヒのかすかに丸みをおびた爪は、そのうち男の薄い皮膚に食い込んで、そうして彼のさらなる興奮を誘った。彼は舌を濡らす唾液を、悟られないよう静かに呑みこむ。
そうしてちょうど、爪切りを握るルートヴィッヒの右手が、男の小指の爪に差し掛かったところだった。手を滑らせた。深く切りすぎた爪の隙間から、やわそうな肉がチラリと見えた。そこからぷっくりと鮮やかな赤色の血が盛り上がって、小指の肉を伝ってゆるやかに流れている。ごとん。ルートヴィッヒの右手から、爪切りがずるりと床にすべり落ちた。ルートヴィッヒの表情に、焦りの色がゆっくりと浮かび上がってくる。

比して男の方は、案の定、そういう顔で、特に驚くようすもなかった。刃が肉に食い込む感触はきっと久しいものだろう。痛みはほとんどないらしい。それどころか眼前で狼狽するルートヴィッヒの姿はひどく愛おしく、火に油をそそがれたような気になった。今この状態でひどいことを要求したら、このひとは一体、どういう顔でどういう反応をするのだろう、と。

手をゆっくりと伸ばして、彼はルートヴィッヒの前髪を掴んだ。びくりと不安げにゆれる瞳。この恐怖を、ルートヴィッヒは知っている、おぼえている。思わず、下唇を舐めずった。青い目が細くなる。甘たるい口づけをする気はない。
男は後頭部を強く掴んで、ルートヴィッヒのくちびるを自らの足の爪先にもってゆく。ほら、ちゃんと舐め取れよ。…自分でも気味が悪くなるほど、歪んだ愉悦を含んだ声だった。足元の方で、ルートヴィッヒがびくびくと蠢く。そうしていっとき間をおいて、男の小指の皮膚にぬっと生ぬるい感触が這い始めた。ルートヴィッヒがちゅう、と音を立てて、男の小指の血をすする。
そうして流れてくる血を啜りきったルートヴィッヒはふうふうと熱い息を吐きながら、ゆるゆると首をもたげ、焦点の合わない瞳でカークランドをとらえた。口を開いたルートヴィッヒの、舌の真ん中ほどのくぼみに溜められた血と唾液とが混ざって、糸をひく。男は思わず喉を鳴らした。体の中心のあたりが、じわじわと疼く。
作品名:爪を切り損ねた 作家名:高橋