可愛いあの子
パパパ、と勢いよく飯をかき込みだす教え子を前に、妙に目を反らした土井は何度も頷いた。
「せんせー、お湯沸きましたー」
「んー。そうか」
「一緒に入りましょー」
「んー。……んん!!?」
炉端で寛いでいた土井は、思わずぐしゃりと広げていた新聞を握り潰した。勢いよく声をかけた本人を振り返れば、廊下からニコニコと見下ろしてきている。
「ちょ、ちょっと待てきり丸! 今なんて……」
「だから、風呂一緒に入りましょうって。その方が薪も一回分で済むし、お湯も多く感じるし、一石二鳥じゃないっすか」
「な、何を今さら……も、もう子供じゃないだろうっ」
なぜか、土井はぐしゃぐしゃになった新聞を握りしめてわなわなと震えている。
それを見て、きり丸は心外だといった様子で顔をしかめた。
「俺だってもう風呂ぐらい一人で入れますよ! そうじゃなくて節約ってだけなんだから、そんなに怒らなくてもいいじゃないですかぁ」
「怒っ……!? い、いや私は怒っているわけじゃない。ただ、そういうのは、なんというか、だな……」
またしても歯切れの悪い土井に、そうそう細かい神経は持ち合わせていないきり丸はさっさと土井の腕を掴んだ。
「怒ってるわけじゃないんすよね、じゃあいいじゃないですか! 今日はご飯で贅沢したんすから、風呂は節約ですからねっ」
「わ、わかった、わかったから離しなさい!」
ずるずると風呂場に連れ込まれて、土井は慌てながらも了承した。
やはり、目線は妙にきり丸から反らされている。
「……やー、やっぱ肩まで浸かる風呂はいいっすねぇ〜」
「あぁ、最近お前の節約のおかげで、半身浴ばかりだったからなぁ」
「しょうがないじゃないっすかぁ、最近は薪だって高いんですから! でもこうすれば二人で肩まで浸かれますね、冬休みの間は一緒に入りましょう、先生」
きり丸は嬉々とした様子で呼びかけたが、返事がない。ハテと思って背後の土井を振り返ると、何やら明後日の方向へ顔をそらして難しい顔をしている。
さすがに、きり丸の堪忍袋の尾も限界を迎えた。
「……先生」
「……」
「先生!」
強い口調に、さすがに上の空の土井も慌てて視線をきり丸へ戻した。振り返るきり丸は、完全に土井を睨みつけている。
「な、なんだ、きり丸」
「今日の先生、やっぱり変っす、おかしいっす」
言いながら、きり丸は狭い風呂の中で器用に体の向きを変えて、土井に圧し掛かるようにして迫った。
「俺が話しかけても上の空だし、かと思ったらやたら派手なリアクションするし。どうしたんですか、何かあったんすか」
「き、きり丸。おい、わかったから、」
「わかってないっす、ちゃんとこっち見てくださいっ」
またも目を反らそうとする土井を逃すまいと、きり丸は圧し掛かったまま小さな手を伸ばして土井の顔を挟み込んだ。
「き、きり丸」
困ったような土井の顔がやむを得ずきり丸を見て、それからますます困ったように眉根を寄せた。
「……きり丸。ダメだ、私は」
妙に弱々しい土井の声に、きり丸はぎょっとして目を見開いた。
我らがは組の担任土井先生の、こんなに頼りない声を聞いたのは初めてだ。これは相当な悩みがあるなと、きり丸は土井と同居している身として妙な責任感を感じた。
「先生、どうしたっていうんです。話してください」
「……いや、ダメなんだ。お前に言ったら私は」
「構いません。俺、聞きたいです。俺、先生のことちゃんと受け止めます」
「……きり丸、お前……!」
それを聞いた土井が、極端に感動した顔をしたのできり丸はさすがにちょっと言い過ぎたかなと心配になった。
ところが、心配になったところで後の祭りであったのだ。
「きり丸」
土井先生の顔が、なんか近いなと思ったのも束の間だった。
「愛している」
そこできり丸は、生まれて初めての接吻をされた。
「ありえないっす。先生、いろいろ返してください、俺の大事なもの」
「……すまん。悪かったと思ってる」
布団に突っ伏して、きり丸は大仰にため息をついてみせた。
「あーも〜、腰痛いっす喉痛いっす中がぐちゃぐちゃで気持ち悪いっすー」
「……お前、それは男を煽るだけだぞ」
唐突に降ってきた額への口付けに、きり丸はギャッと声をあげる。
「先生のケダモノ〜!」
「なんとでも言え! 私だって、お前に打ち明けるつもりはなかったんだ」
「よーく言いますよ、接吻してそのまま俺のバージンまで奪っちゃって! 俺、なーんにも知らなかったんですからね!」
「悪いとは思っているが……男冥利に尽きる」
頭をかきながらの土井の台詞に、きり丸はじと、と恨みがましい目を向けた。
「……先生、なんか開き直ってません?」
「いや、バレてしまったらなんだか妙にすっきりしてしまってな。お前の女装、あれも本当は可愛くてしょうがなくてな……」
「はぁ!?」
きり丸は腰の痛みも忘れてピョンと飛び起きた。
「まさか先生、俺の女装を独り占めしたくて邪魔してたんですかぁ!?」
「そ、そういうわけじゃないぞ! お前の女装は本当に可愛いからだな、悪い男に狙われないかと心配でだな……」
「それって、それって」
わなわなと震えながら、きり丸は盛大に結論づけた。
「俺が、超女装うまいってことじゃないですか!」
「……いや、まぁ、それは周知の事実だとは思うが」
「なんすか、もう! 早く言ってくださいよ! こうなったら俺、全部のバイト女装で……」
「待て待て待て待て! なーんでそうなるっ」
「特技を商売に活かさないでどーするんですかっ! もー先生の詭弁には誤魔化されませんよ、何が何でも女装で稼いでやるっ」
「それが危険だとゆーとるのにーっ!」
こうして土井の神経性胃炎は、休暇の間にも進行していくのであった。
< END >