Insomnia
彼は僕に、アイスランドという名をくれたひとだった。
海に浮かぶ孤島の僕を見つけてくれた。この世界について、自分という存在について、まだ何も知らない僕に教えてくれたひとだった。
しなやかでミステリアスで、つよくてうつくしいひと。
彼が僕の本当のお兄ちゃんだったなら――なんて、おさない僕は本気で希っていたのだった。
*
「アイス……そん手ば離せ?」
「うーっ」
この裾をつかむ手を離してしまえば、ノーレが帰ってしまうと分かっていたから。がきんちょの僕はノーレの服をにぎりしめて、彼を帰さまいとがんばっていた。
ノーレが本土に帰ってしまえば、僕はまたひとりきり。自国の国民がいるから正しい意味での孤独ではないけれど、彼らはヒトで僕は国、相容れない存在なのだ。僕は覚束ないながらも本能的に、自分と同じ同胞――つまり同じ《国》であるノーレをこいしがっていた。
いつもの変化にとぼしい表情ながらも、ノーレは困惑した様子で立ち止まって、膝を折った。ふわりと抱き上げられて、僕は彼にしがみつく。
「いつまでもここにいられねんだ、アイス」
「やだ、いやだっ」
「聞き分けねぇこと言うでねぇ」
なかなか会えないぶん、僕のところに来たノーレは時間の許す限り僕のそばにいてくれた。僕も昼間はずっとノーレにまとわりついていて、夜になれば一つの床で一緒に眠った。それが今夜からは、またひとりきりで夜を過ごさなければならないのだ。
あたたかな体温にくるまれて過ごした幾晩の後、ノーレと別れてすぐの数日間が、一番つらい。だから僕は無駄な抵抗と分かっていながらも、すなおに「さよなら」することができないのだ。
かといって、彼だっていつまでも僕のところにいるわけにもいかない。でも僕は頑是なく首を振り続け、ますます強くノーレにしがみついて離れない。困り果てたノーレは、「アイス、」と特別にやさしい声で僕を呼ぶ。
「ぐっすり眠れる魔法をかけてやる。きっと、こわい夢は見ねぇから」
「……ほんとうに?」
「ん」
僕がすっかり眠りこんだその隙に、ノーレは海を渡って帰っていくのだ。
帰ってほしくないという気持ちと、彼があやつるという《魔法》への好奇心、ふたつがせめぎあって結局、後者が勝った。好奇心にきらめく僕の瞳を見て取ったノーレは、僕を寝床へと連れていく。
敷き物の上に寝かせて、自分も横に添い寝して、ノーレは僕の頭を撫でる。そして、低くやわらかな声で何事か言葉をつぶやく。大昔に使われていた、その時の僕が知らない音律をもつ、古い言葉。蓋を開けてみれば、母親が我が子の安眠を祈るような、なんの変哲もない内容の文言だったのだけど、おさない僕にはよく効いた。
ノーレの静かな声がじんわりとしみこんでいく。
きっと、だいじょうぶ。そう信じたらまぶたが重くなってきた。
「おやすみ、アイス」
「……ん!」
とどめは、唇へのキスだった。
ふぅ、と口移しで魂を吹き込まれるみたいな不思議な感じ――はあくまでも気のせいだったのだろうけど、思わずうっすらと目を開けたらどこかやさしげなノーレが、手で僕のまぶたを覆った。
たちどころに、僕は眠りの世界へといざなわれていった。
それが一番最初の記憶。ノーレが僕にかけた魔法は、たわいない呪文と、触れるだけのやさしいキス。
それからのしばらくは、ノーレが帰り際にくれる特別なキスで満足していた。
時は流れ、僕は徐々に成長していく。肉体的成長とともに相応の智恵や分別というものも備わってくる。もう僕は「帰らないで」とぐずる幼児ではなかった。離別のさびしさは変わらなかったけれど、もうキスをねだるような幼稚っぽいことはしない。
それでも、理性では律しがたい不安に襲われる時は、昔と同じように人肌を求めたがる。
自国の政治経済が荒れれば、僕の精神はたちまち不安定になる。ひとりの夜がどうしょうもなく不安になる。ぐっすり眠れそうにない夜も、なんでもない風を装った。けれど、目ざといノーレにはなぜか容易く勘づかれてしまう。
「眠れそうにねぇのか?」
「別に」
「無理すんな」
「してないってば」
また昔みたいにおやすみの魔法はいるかなんて訊いてくるものだから、僕はついつい「いらないよ、もう子どもじゃないんだから!」と声を荒げてしまう。「そうけ」と分かっているのかいないのか、茫洋とした顔であいづちを打ったノーレは、くっと口の端をつり上げる。
「んなら、もっと現実的な方法を試してみっか?」
「なに、それ」
魔法だ呪文だなんて子どもだましではない、別の方法?そんなもったいぶった言い方されちゃあ気になるじゃないか。そっぽを向きながらも目だけをノーレの方向に向ければ、彼はくつりと笑う。
「昔もそうやって、食いついてきたべな」
「……悪かったね、いつまでも単純で」
「悪がねぇ、くさるなアイス」
寝室へ行って、うながされるがまま寝台に腰掛けると、隣に座ったノーレが寄ってきて距離をつめる。膝と膝が触れ合うほどに寄り添って、自分の方を向かせたノーレは僕を腕に抱く。あいさつのハグよりもやさしく、長い。
身体を離されれば、ごく間近にノーレの顔。月明かりに浮かぶ彼のまつげ。夜空の色の瞳がしっとりときらめいている。
「酒をちびっと舐めんのが手っ取り早ぇんだけんども、おめにはまだ早ぇな」
「うん、僕も遠慮しとくよ」
一度飲んでみて、ひどい悪酔いを経験してからは、酒の力に頼るのはごめんだと思っている。くやしいけれどおあずけだ。いつか飲めるようになればいい、せめてこの身体が成人のそれになるまでは。
「お酒じゃないなら、なに?」
「酩酊、に限りなく近ぇ感じだべな」
「え?」
元ヤン(いや、当時は現役か?)は、により、と不穏に笑って顔を近づける。いつの間にか僕の腰と後頭部にノーレの手が回されている。僕が声を上げる前に、唇を塞がれた。
「ん……?!」
僕の口許に触れた唇がゆっくりと離れていく。
月明かりを背にして、間近で微笑んでいるノーレ。薄いまぶたの下に見え隠れする瞳が、うつくしく妖しく僕を見つめている。ぞくり、悪寒のような何かが背筋を這った。容貌の整った顔立ちのひとだとは思っていたけれど、ああ、今は。
「ノーレ……っ!」
兄と慕うひとが、その時だけはとてつもなく妖艶に見えた。色香でヒトをたぶらかすあやかしを連想した。弧を描く唇、この唇でキスされたのだ。赤い舌がちろりと、自分の乾いた唇をなめる。
僕はすっかり魅入っていた。寝台の上の彼は、いつもの擬似の兄としてのノーレとは違って見えた。
心地よく眠らせてやるからと、僕を誘ううつくしいあやかし。
「やーらけぇ唇だべな」
「な……な、な、っ!」
なんという恥ずかしいことを言うのか!思わず彼を突き飛ばしかけたのだが、身体はびくともしない。髪を撫でられて、片手で顎を固定されて、また唇を重ねられた。
「んん、ん……んう!んーッ?!」
混乱しきっていた僕は、容易く咥内に侵入をゆるしてしまう。ぬるぬると這いずり回る舌。最初は気持ち悪かった、というよりは、ひたすら受け入れかねていた。だって、普通のあいさつのキスじゃあ、ここまで生々しいことはしないから。
海に浮かぶ孤島の僕を見つけてくれた。この世界について、自分という存在について、まだ何も知らない僕に教えてくれたひとだった。
しなやかでミステリアスで、つよくてうつくしいひと。
彼が僕の本当のお兄ちゃんだったなら――なんて、おさない僕は本気で希っていたのだった。
*
「アイス……そん手ば離せ?」
「うーっ」
この裾をつかむ手を離してしまえば、ノーレが帰ってしまうと分かっていたから。がきんちょの僕はノーレの服をにぎりしめて、彼を帰さまいとがんばっていた。
ノーレが本土に帰ってしまえば、僕はまたひとりきり。自国の国民がいるから正しい意味での孤独ではないけれど、彼らはヒトで僕は国、相容れない存在なのだ。僕は覚束ないながらも本能的に、自分と同じ同胞――つまり同じ《国》であるノーレをこいしがっていた。
いつもの変化にとぼしい表情ながらも、ノーレは困惑した様子で立ち止まって、膝を折った。ふわりと抱き上げられて、僕は彼にしがみつく。
「いつまでもここにいられねんだ、アイス」
「やだ、いやだっ」
「聞き分けねぇこと言うでねぇ」
なかなか会えないぶん、僕のところに来たノーレは時間の許す限り僕のそばにいてくれた。僕も昼間はずっとノーレにまとわりついていて、夜になれば一つの床で一緒に眠った。それが今夜からは、またひとりきりで夜を過ごさなければならないのだ。
あたたかな体温にくるまれて過ごした幾晩の後、ノーレと別れてすぐの数日間が、一番つらい。だから僕は無駄な抵抗と分かっていながらも、すなおに「さよなら」することができないのだ。
かといって、彼だっていつまでも僕のところにいるわけにもいかない。でも僕は頑是なく首を振り続け、ますます強くノーレにしがみついて離れない。困り果てたノーレは、「アイス、」と特別にやさしい声で僕を呼ぶ。
「ぐっすり眠れる魔法をかけてやる。きっと、こわい夢は見ねぇから」
「……ほんとうに?」
「ん」
僕がすっかり眠りこんだその隙に、ノーレは海を渡って帰っていくのだ。
帰ってほしくないという気持ちと、彼があやつるという《魔法》への好奇心、ふたつがせめぎあって結局、後者が勝った。好奇心にきらめく僕の瞳を見て取ったノーレは、僕を寝床へと連れていく。
敷き物の上に寝かせて、自分も横に添い寝して、ノーレは僕の頭を撫でる。そして、低くやわらかな声で何事か言葉をつぶやく。大昔に使われていた、その時の僕が知らない音律をもつ、古い言葉。蓋を開けてみれば、母親が我が子の安眠を祈るような、なんの変哲もない内容の文言だったのだけど、おさない僕にはよく効いた。
ノーレの静かな声がじんわりとしみこんでいく。
きっと、だいじょうぶ。そう信じたらまぶたが重くなってきた。
「おやすみ、アイス」
「……ん!」
とどめは、唇へのキスだった。
ふぅ、と口移しで魂を吹き込まれるみたいな不思議な感じ――はあくまでも気のせいだったのだろうけど、思わずうっすらと目を開けたらどこかやさしげなノーレが、手で僕のまぶたを覆った。
たちどころに、僕は眠りの世界へといざなわれていった。
それが一番最初の記憶。ノーレが僕にかけた魔法は、たわいない呪文と、触れるだけのやさしいキス。
それからのしばらくは、ノーレが帰り際にくれる特別なキスで満足していた。
時は流れ、僕は徐々に成長していく。肉体的成長とともに相応の智恵や分別というものも備わってくる。もう僕は「帰らないで」とぐずる幼児ではなかった。離別のさびしさは変わらなかったけれど、もうキスをねだるような幼稚っぽいことはしない。
それでも、理性では律しがたい不安に襲われる時は、昔と同じように人肌を求めたがる。
自国の政治経済が荒れれば、僕の精神はたちまち不安定になる。ひとりの夜がどうしょうもなく不安になる。ぐっすり眠れそうにない夜も、なんでもない風を装った。けれど、目ざといノーレにはなぜか容易く勘づかれてしまう。
「眠れそうにねぇのか?」
「別に」
「無理すんな」
「してないってば」
また昔みたいにおやすみの魔法はいるかなんて訊いてくるものだから、僕はついつい「いらないよ、もう子どもじゃないんだから!」と声を荒げてしまう。「そうけ」と分かっているのかいないのか、茫洋とした顔であいづちを打ったノーレは、くっと口の端をつり上げる。
「んなら、もっと現実的な方法を試してみっか?」
「なに、それ」
魔法だ呪文だなんて子どもだましではない、別の方法?そんなもったいぶった言い方されちゃあ気になるじゃないか。そっぽを向きながらも目だけをノーレの方向に向ければ、彼はくつりと笑う。
「昔もそうやって、食いついてきたべな」
「……悪かったね、いつまでも単純で」
「悪がねぇ、くさるなアイス」
寝室へ行って、うながされるがまま寝台に腰掛けると、隣に座ったノーレが寄ってきて距離をつめる。膝と膝が触れ合うほどに寄り添って、自分の方を向かせたノーレは僕を腕に抱く。あいさつのハグよりもやさしく、長い。
身体を離されれば、ごく間近にノーレの顔。月明かりに浮かぶ彼のまつげ。夜空の色の瞳がしっとりときらめいている。
「酒をちびっと舐めんのが手っ取り早ぇんだけんども、おめにはまだ早ぇな」
「うん、僕も遠慮しとくよ」
一度飲んでみて、ひどい悪酔いを経験してからは、酒の力に頼るのはごめんだと思っている。くやしいけれどおあずけだ。いつか飲めるようになればいい、せめてこの身体が成人のそれになるまでは。
「お酒じゃないなら、なに?」
「酩酊、に限りなく近ぇ感じだべな」
「え?」
元ヤン(いや、当時は現役か?)は、により、と不穏に笑って顔を近づける。いつの間にか僕の腰と後頭部にノーレの手が回されている。僕が声を上げる前に、唇を塞がれた。
「ん……?!」
僕の口許に触れた唇がゆっくりと離れていく。
月明かりを背にして、間近で微笑んでいるノーレ。薄いまぶたの下に見え隠れする瞳が、うつくしく妖しく僕を見つめている。ぞくり、悪寒のような何かが背筋を這った。容貌の整った顔立ちのひとだとは思っていたけれど、ああ、今は。
「ノーレ……っ!」
兄と慕うひとが、その時だけはとてつもなく妖艶に見えた。色香でヒトをたぶらかすあやかしを連想した。弧を描く唇、この唇でキスされたのだ。赤い舌がちろりと、自分の乾いた唇をなめる。
僕はすっかり魅入っていた。寝台の上の彼は、いつもの擬似の兄としてのノーレとは違って見えた。
心地よく眠らせてやるからと、僕を誘ううつくしいあやかし。
「やーらけぇ唇だべな」
「な……な、な、っ!」
なんという恥ずかしいことを言うのか!思わず彼を突き飛ばしかけたのだが、身体はびくともしない。髪を撫でられて、片手で顎を固定されて、また唇を重ねられた。
「んん、ん……んう!んーッ?!」
混乱しきっていた僕は、容易く咥内に侵入をゆるしてしまう。ぬるぬると這いずり回る舌。最初は気持ち悪かった、というよりは、ひたすら受け入れかねていた。だって、普通のあいさつのキスじゃあ、ここまで生々しいことはしないから。