Insomnia
女性との情熱的なキスもままならなかった僕を、ノーレはいいように翻弄した。
呼吸を奪うように唇を重ね、舌を咥内にまとわりつかせる。追い出すつもりが結果としてノーレの舌と絡み合うはめになり。
「ふぁ、あ、……んむ、んぅ、」
「ん……」
顎に掛かっていた手を退けられて、唇を離されて、僕はずるりとくずおれた。すっかり酸素欠乏状態で、頭がぼんやりとしてろくに機能していない。ノーレに支えられて、ようやく僕は体勢を保っていられるという有様だった。
「ふー……、アイス?」
顔をのぞき込まれて、袖で口許を拭われても、もはや僕はなすがままだった。ノーレの肩口に頭をあずける。おかしい、身体が熱くて目が涙にうるんで、これはまるで――気持ちよく酔っぱらっているみたいじゃないか。
僕にその経験はないけれど、話に聞いていた、それに素面の僕が見た酔っぱらいも、こんな感じじゃなかろうか。
「えがったけ?」
「わ、かんな……」
よかったかなんて訊かれても。これが気持ちいいという感覚なのかすら判然としない。意識がふわふわとして、なんだかとても満たされている感じ。僕が深いため息をつくと、ノーレはそれが「よかった」というサインなのだと判断したらしく、憎々しくも艶やかに笑んで、僕を横たわらせた。
「おやすみ、アイス」
僕の意識は溶けるようにして、夜の闇に消えた。
下品な淫猥さはなく、一流のショコラティエがつくったチョコレートみたいに、濃密で甘ったるい。それが僕の下した、彼とのキスの評価だ。
その時の僕は何がなんだか分からなくて、ノーレのいいように翻弄されているだけだった。冷静な評価が下せるようになったのは、もっと後。幾度も彼とのキスを重ねてからのことである。
価値観を揺るがされて濃厚なキスを仕掛けられて、茫然としていた僕にするりと忍び込んできたのは、ノーレの体温だった。一緒に寝てくれるつもりらしい。「子どもじゃないんだから、添い寝なんて冗談じゃない、と、いつもならまっ先に思うのに。
腕にしっかりと抱き込まれて、僕は無意識にすり寄っていた。心の空虚な部分を埋めていく、泣きたくなるほど懐かしいもの。におい。体温。耳朶を打つ彼の声。薄い布と皮膚を隔てて聞こえる、力強い鼓動。郷愁。
ひとと触れ合うことがこんなに安心できるのだと、教え込んだのは兄だった。
その依存性がおそろしくて、僕は努めて《ノーレ》という安眠剤を自分から遠ざけた。それはもう、昔みたいにべたべた彼に懐かないということ。周囲のひとたちは、僕に反抗期が来たとでも解釈したらしいが、本当のところはどうなのか。
「いつまで意地はっとるつもりけ、アイス」
「うるさいよ!」
僕にすげなくされても、微塵も動揺の色を見せないノーレ。彼は知っているのだ、また人恋しくなった時に、僕のほうからすり寄ってくるであろうということを。
DNA調査結果の報告の場で、久しぶりにノーレの顔を見た。お互い多忙の身、メールや電話でのやりとりこそ頻繁にあるものの、実際に顔を合わせるのは数か月ぶりか。その夜、なんだかんだで引きとめられた僕は、ノーレの滞在するホテルを訪れていた。
間接照明だけが灯る室内は、ぼんやりと暖色の光に包まれている。
閉じた視界の向こうで、僕の二の腕をつかむ手の温度だけを唯一の頼りにして、相手の存在を知覚する。視覚を封じた僕はいやにクリアに、彼の顔が近づいてくる気配を感じ取っていた。
ノーレは僕の唇に吸いついた。ちゅう、とどこか滑稽な音が立つ。自分のそれを合わせて、ちょっとだけ唇を浮かせて舌先で舐めて。その薄い皮膚のなめらかさ、やわらかさを味わうように、彼は触れるだけのキスを繰り返す。
固く閉じ合わせた僕の唇に、はしたない水音を立てながら舌先を差し込み、様子を見ながら吸い上げる。
僕はびっくりして、とっさに目を開ける。ピントが合わないぼやけた視界、触れられそうなくらい間近にあった藍色が、にやり、笑みの色を浮かべた。
かぁっと頬が上気した。
唇が束の間離れた拍子に、「ん……ふぁ」と、自分のものとは思えない、甘くとろけた吐息が漏れた。恥じ入った僕は頬をなお赤く染めて、ひくりと肩を震えさせる。
「アイス」
この声がたまったものではない。愛しくてたまらないっていうみたいに、ノーレは甘い声音で僕を呼ぶのだから。
こくり、ノーレの突き出た喉が上下する。たおやかに首をかしげて、その澄んだ瞳をすがめた。
「気持ちええか?」
「き、かないでよ、そんなこと……!」
どこか茫洋としてつかみどころが無く、無関心なものは徹底して拒絶するノーレが。その瞳に僕だけをおさめて、艶やかに微笑む。唇を濡らして体温を上げて、戸惑っている僕の姿が、湖面のような瞳に映っている。
「じゃあ、嫌け?」
「う……」
「おめぇが嫌ならもうやらん」
嫌がる相手に強要するのは自分の趣味ではないから、そんなことを飄々と言って。あまつさえノーレは僕を自分の膝の上から降ろそうとする。
考えるよりも先に、突き放されるまいと、僕は彼に腕を回して抱きついていた。ぽん、ぽん、と僕の背をたたく手のひら。うそだよ、離さないよ、なんて言わんばかりに。
ちくしょうやられた、これじゃあノーレの思い通りじゃないか。
「うー……!」
「悪がった、意地悪ぃこと言うたな」
恥ずかしいし、悔しいったらない。でもノーレは僕よりもずぅっと年上で、周囲の強国にもまれて生きてきたようなひとなのだ。はなっから僕が敵うような相手ではない。
「ま、おめが本気で嫌がらん限りは、離してやんねぇけんども」
あやすように、頬に口づけられた。
ほうらやっぱり。悔しい、けれど安堵もしていた。
「バカ……ノーレのバカッ」
「んだな」
「バカノーレっ!……っと、ね、もっと、っ」
指が僕のくせっ毛を撫でる。それだけじゃあ物足りない。焦れた僕は身体を起こして、みずからその唇に吸いつく。
「ん……」
それ以上のことはできなかった。けれど、僕のつたない誘いにようやくその気になってくれたらしいノーレは、いたわるようにまた髪をひと撫で、その手を僕の後頭部に添える。
「分がった、だがらンな顔すんでねぇ」
誰のせいだよとか、どんな顔してんだとか。思ったけれどどうでもよくなった。僕はまた目を閉じる。しっかりとこのひとを見つめながら心穏やかにキスを交わせるほど、僕は強靱な精神力を持ちあわせていない。
「ん、っふ……」
傾けて合わせた唇の間から、ぬるりと舌が忍び込んできた。絡ませて、舌の平らなところや頬の裏側をなめられているうちに、頭がぼうっとしてくる。鋭敏になる触覚だけを残して、その他の感覚が大ざっぱになる。
気持ちよくてたまらない。つながっている箇所から境界線が失われて、どんどん自分というものを見失っていく。とけて、深い湖の底に沈んでいく、そんなイメージ。
「ふ、んうっ」
ようやく唇が離れていく。