歌姫
テレヴィジョンの画面の向こう。やわらかな生成り色のソファに腰掛け、真っ直ぐな黒い髪と同色の睛をあたたかな色に見せながら、穏やかな照明の下で、彼女は語っていた。黒に黒をかけたその色合いは目に馴染んだものだが、顔立ちを見れば、彼女がこの国やこの星の生まれでないことは容易に想像がつく。天人と呼ばれる彼等は、乳児や幼児に分類されるちいさなこどもをここで育てたりつくったりしようと思うほど、まだこの国やこの星を信用してはいなかった。
そんな天人たる彼女が、しかし楽々とこの国の言葉を操るのは、彼女の聡明さが成したものか、それとも長い時間を此処で過ごしたからか。少し考えて、後者だ、と、沖田は思い出した。彼女がこの星へ――延いてはこの国へ来たのは、慥かもう何年も昔のこと。年の離れた姉は、沖田と同い年の彼女の、デビュウ曲のレコォドを持っていた筈だ。今は嫁いでしまった姉の生家の部屋を探れば、それは今でも天袋辺りにひそりと息を潜め、歌うときを待っているのかもしれない(今も昔も、沖田の家にレコォドプレイヤがあったことはないのだけれど)。
今日彼女が身に纏っている衣装は、彼女の出身星の民族衣装だった。沖田はその名前を知らないが、ひらひらと蜉蝣の翅のような薄衣を重ねたそれは、神話紛いの昔話に出てくる天女のものに似て見える。沖田が絵本の中に見た天女は白黒の味気ないものだったが、色が付いていれば、多分こんな風だろう。やさしい色が幾重にもなって、さらさらと木葉擦れにも似た音をたてた。
ぼんやりと記憶のなかの絵本の筋を思い出してみるけれど、羽衣を盗られた天女は、結局天へ帰れたのか否か、結末だけが思い出せない。画面の向こうの彼女は、たぶん、帰らないのだろうな、と感じた。それは決して、帰れないのではなく。
見た目通りに儚くちいさな、しかし舌足らずなところはまったくない声と話し方で、彼女は尚語り続けている。けれどその語られている内容といえば、デビュウの経緯だとか、飼っている猫のことだとか、休日の過ごし方、これから歌う新しい曲のレコォディング中の裏話、そんなもので、沖田はがっかりしてしまった。それは彼女の見た目にも声にも話し方にもまるで不似合いで、そんな話題ばかりをふる低い声の司会の男を、沖田はどうかしてしまいたくなる。
物騒な方向へすぐに顔を向ける自分を、沖田はそれほど嫌っていない。けれど今はそれを収め、それなら何が似合いかと戯れに考える。浅く身の入らない思考の中では、彼女に似合った話題など、沖田に見つけられそうもなかった。
彼女は、ただ歌っているのだけが似合いだ。一度も彼女の歌を聴いたことのない沖田だったけれど、そう結論づけて、コマァシャルが挿まれたのを機にテレヴィジョンの横へ置いた時計へ目をやった。八時二十五分を回っている。言われていた時間には未だ少し早いような気がしたが、沖田は身体を捻り、屈め、早めに敷いていた己の布団の中で仮眠する彼の髪の一房を左手で引いた。
「山崎、」
落とすように名を呼べば、彼はすぐに目を覚ます。ふ、と上がる瞼は、しかしまだ半分睛を隠していた。もう半分、部屋の明かりに覚醒しただろうそれも、けれど今は未だ白い敷布を映すばかりか。……いや、半端に伸びた髪の先も、もしかしたらすこしは映っているかもしれない。と、そこで区切りをつけた。自分以外の人間の視界を想像するのは、沖田の癖のようなものだった。思考に暇が出来ればすぐにその癖は割り込みをはじめ、転寝をしながらテレヴィジョンでも見ているような、そんな心地になる。ただ、近頃の想像の視界は、とりわけ山崎のものが多かった。
山崎は身動ぎして身体を倒し、仰向けの姿勢になった。けれど、そこまでだ。布団は沖田の座布団も兼ねていて、沖田は背を向けて眠っていた彼を軽く背凭れにしていたし、今はその身体の向こう側へ右手をついていた。山崎は、沖田にはさまれて起き上がれない。屈めた背やなんかはそのままだったから、山崎には沖田のつくった影が落ちていた。ゆるやかに前髪が横へすべって、男にしてはきれいな、けれど女とは見間違えられない顔がよく見える。山崎が数度、瞬きをした。
もちろん、沖田のそれは、わざとやっていることだった。不必要に近付けた顔も、未だ山崎の髪を弄る左手も。けれど、意図はない。理由がなくてもそのくらいのことはできる――――相手にも、よるけれど。沖田は胸の中で付け加え、そろそろコマァシャルが終わるだろうな、と、どうでもいいようなことを考えながら、枕の跡がうっすらとついた山崎の頬へ視線を固定した。風邪薬を宣伝するピアノ曲が聞こえる。
「……何時ですか」
「八時半」
山崎があんまり普通の声で訊いたので、沖田もそれへ倣い、平熱の声と顔で答えた。もうすこし何か違うものを予想していたから、その行動は反射みたいなものだった。ちらと窺うとそれに一瞬早く、山崎の睛が伏せられる……沖田の視線の移動に気付いて、ひらと逃げたのだった。そこに、期待したものは見つけられず、沖田は仕掛けのないびっくり箱を開けたような気になった。
そんな自分を自覚して沖田は、ひとつ訂正をする。意図も理由も、ほんとうはあったのだ。
目覚まし代わりにされたのだから、慌てる顔を見るくらいはいいだろうと思っていた。というより、沖田はそれが見たかった。なのに山崎は、もう仕事用(しかも真剣型)の顔をしている。沖田は、素直に浮かんだ「面白くないな」という気持ちをそのまま顔に出さない程度には思春期を捨てている、と自分で思っていた。だからそれへ続いた、ありがとうございます、どいてください、の言葉に大人しく従い、コマァシャルの明けたテレヴィジョンの画面へ再び向かう。沖田が退いてすぐに山崎が身を起こしたのは、見なくとも分かった。
画面の向こうのソファには、相変わらず穏やかでやさしげで儚い天人の歌うたいが座っていて、時折微笑みを唇へのせて、当たり障りのない話をしている。それはまったく、歌うたいであるということに付随する諸々以外は普通の少女の日常に他ならず、天人だということを感じさせなかった。画面を見、彼女を見たのだろう、山崎がふつりと言った。
「明日の予習ですか」
そうだとも違うとも答えず、ただ画面のなかの彼女を見る。沖田が見ているのは、今放映されている番組ではない。数週間前に流されたものの、録画だった。
明日行われる彼女のコンサァトにテロ予告が送り付けられたのは、数日前のことである。そこから真選組へ話が持ち込まれるまでに二日程あって、予定外のその任務が決まったのは昨日のことだった。彼女が選ばれたのは、天人であるというそれだけの理由だろう。その会場警備と彼女自身の護衛に当たるのがつまり、明日の沖田と真選組の任務である。おそらく彼女のファンなのだろう隊の誰かが録画していたものを、資料として見ておけ、と、そう沖田へ言ったのは土方だった。