歌姫
つまらない会話が終わり、カメラが切り替わると、彼女は蒼い霧の中に立っていた。ゆぅるりと前奏が流れ出す。大写しにされた彼女に、曲名や作曲者、作詞者を教えるテロップが被ったが、沖田はそれを読まなかった。伏せられた彼女の瞼の線が、誰かに似ている。一瞬そう思ったけれど、そんなもの、誰だってそう違いはしないだろう。山崎は折角沖田が起こしたというのに、まだ布団の中に身体の半分を残していて、部屋を出ていこうとはしなかった。
「俺も、そっちの仕事行きたかったんですけどね……」
ふうと吐かれたため息は、彼女の歌った一音目と同じタイミングだった。
あぁ山崎は疲れているのだな、と、今更なことを沖田は確かめるように思う。山崎の監察方という職務は、時期によっては隊長である沖田よりも多忙を極めた。明日の沖田の任務のように予告されるものは珍しく、また、(こういったものに上下をつけるのは良くないが)軽いものであることが多い。重大なものほど、秘密に秘密を重ねた闇の奥で計画されるものだ。危ういバランスであちらこちらを浮遊する情報を掴むのは、まったく、『疲れる』よりも重く核心をついた言葉があれば惜しみなく使うのに、と不自由を感じるほどだろう。
沖田は山崎が今何をしているのかこそ知らなかったが、その内容が、自分に仮眠の目覚ましを頼むほど山崎を疲れさせるものなのだということは分かる。
「布団、ありがとうございました。今俺らの部屋、畳が見えなくて」
監察方は、まとめてひとつの大部屋を私室として使っている。定時というもののない彼等が、他の隊士に気遣うことがないように、という考えから為されたものだったが、それが良かったのか悪かったのかは、今の状態から推して知るべしだ。
とにかく沖田は、今の山崎が疲れていることを分かっていた。分かっていたのにそれを言ってしまった理由は、沖田の胸のうちの、言葉に出来ないところにある。
「……土方のところじゃなくて、よかったのかィ」
言ってしまってすぐに、沖田は後悔していた。何だか今日の自分は最低だ、と、たったその一言で決めてしまえた。空白のような数秒は、どこまでも澄んで透明に響く、彼女の歌だけが聞こえる。
「――――えぇ」
幾分湿った沈黙が混じったものの、しかし山崎の声の温度は変わらない。こういう時に沖田は、確実に山崎よりも年下である自分を実感する。山崎と呼び捨て沖田隊長と呼ばれ、気安くくだけた口調で話しやわらかな敬語で話されるというそれがあっても。そしてもう一度後悔で自分を染め上げて、その後の沖田は、山崎はきっと答えないだろう、と思っていたから、逆に自分が何を言えば言いのか分からなくなってしまった。予想は、裏切られてばかりいる。
沖田は、だいたいのことは知っているのだった。山崎が仕事で疲れていること。今の仕事に入ってから、息抜きのミントンも出来ていないこと。それから、何があったのかなんて知らないし、あまり知りたくもないけれど……土方と、私的な意地を張り合っていること。だから山崎は、沖田の部屋で仮眠を取ったのだし。
彼女の声が、高く伸びる。そろそろ曲が終わるのだろう。彼女は踊るわけでもなく、また、その見た目に合うように舞うわけでもなく、ただひとりきりで蒼い霧の中、スタンドマイクだけを従えて歌っていた。彼女の歌う歌は、めずらしいような曲ではないし、詞でもない。彼女は歌うたいなのだ、と沖田は強く感じた。歌うだけの存在であり、それで、完成されている。
沖田も、山崎も、何も言わなかった。彼女の声が消えてしまって、けれど未だ続いている名残の曲に、スタッフロォルが流れる。彼女からカメラが引いて、画面の左端にちいさく映るだけになった。そうしてしずかに曲が終わると、番組のロゴが画面の右に浮いて、終わりを告げる。――続いたのは、灰色の砂嵐だった。
「……枕、新しいのを持ってこさせますから」
声を使ったのは山崎だった。沖田が返事をしないうちに布団を抜け、部屋を出ていった。遠くなる足音を、沖田は砂嵐の向こうへ押しやろうとして、結局失敗する。
山崎が沖田の部屋で眠っていたのは、たった三十分だった。彼はこれからまた任務につくのだろう。沖田は、明日警護する同い年の彼女の、そういえば名前さえも知らなかった。