ピアニシモ
1.
理由ならほんとうはいくつかあったのだけれど、それらも混ぜてしまえば「たくさんいやなことがあった」という至極簡単な一言に纏められてしまう上に、それが強ち間違いでもなく、神楽はその単純ささえもいやになって、午後の授業が始まってからというもの、ずっと机の上に自分の腕で作った枕へ突っ伏して、寝たふりをしていたのだった。全部を閉じて全部を無視して作り出した暗がりの中にひとり閉じこもり、ひどく重い扉を閉める。どんなことをしても閉じることの出来無い耳は、無視するという意志によって感覚を切ることができた。
そんなことをしていたら、神楽は自分でもそこから出難くなってしまっていた。出たところで、気持ちの真ん中にあるいやなものはまだ無くなってはいなかったから、同じことを繰り返すだけなのだけれど。ふと気付けば午後の授業の終わりを教えるチャイムは鳴り終わっていて、けれど神楽は当然みたいに時間の経過を感じていなかった。ざわついた放課後の空気も、すぐにひそひそとどこかへ消える。なんだか、今の自分はでろでろだと、神楽にはそう思えた。でろでろで、どろどろだ。ビーカーの底に融け残った食塩の色が白ではなく黒で、それを溶かした水の色が透明ではなく絵筆を洗った後のようにぐちゃぐちゃだとしたら、今の自分は、そんなビーカーの中身によく似ている。自分でそんなことを考えて、神楽はまたすこし食塩の色を暗くし、絵具水の透明度を下げた。
そういう時に聞こえたのが、聴きなれた低い声のみじかい質問で、神楽は放課後なのにこの教室にまだひとが残っていたことと、それが聞こえたこと、二重に驚いて息を詰めた。
……うさぎ、撫でるか、
その言葉の最後に疑問符が付いたのか付かなかったのかは、ひどく曖昧だ。巻き戻して再生した所で、きっと分からない。それでもそれは自分に向かって問われたものだと、でろでろでどろどろな部分とは全く別のひんやりとした部分で、神楽はきちんと理解していた。
固い机の上に両腕を折って枕にして頭を載せて何も見えないように何も聞こえないように睛を閉じて気持ちを閉じて、そのくらい念入りに扉を閉じたというのに、それなのにその言葉が聞こえたのは、左斜め後ろ、という極近いところからそれが発せられたから、なんていう理由ではない。もちろん、いつも騒がしいZ組の教室から放課後らしくひと気がなくなってしまっているから、なんていう理由でもなく、それはもっと近いところにあるかんたんなものだ。何となく、よりもはっきりとそう思えた神楽であるが、そこで考えることを止める。ごそりと身体を起こした。
睛を開けば、週番が手抜きをしたのか白くくすんだ黒板が見えて、教卓の上に散る何枚かのプリントと、誰かが作った紙飛行機が眼鏡の円いレンズ越しに見える。左斜め後ろから、ガタと椅子の動く音が聞こえた。それから立ち上がった彼が右回りに歩いて近付くのが何となく神楽には分かって、そこでやっと、ウン、と神楽はみじかい質問へちいさな返事をする。でろでろでどろどろな何かが、からだのどこかからあふれ出てくる。そういうことを少しだけ想像したけれど、そんなことは実際にはなくて、左斜め後ろにいたはずの彼は、そのときにはもう神楽の右斜め前に立っている。少しだけ不本意な顔をしてそれでも右手を差し出していたから、神楽は自分の右手でその手を取ってから、自分も椅子を立った。
ガタと、よく似た椅子の動く音がする。つないだ土方の手は、すこしだけ、あたたかい。
理由ならほんとうはいくつかあったのだけれど、それらも混ぜてしまえば「たくさんいやなことがあった」という至極簡単な一言に纏められてしまう上に、それが強ち間違いでもなく、神楽はその単純ささえもいやになって、午後の授業が始まってからというもの、ずっと机の上に自分の腕で作った枕へ突っ伏して、寝たふりをしていたのだった。全部を閉じて全部を無視して作り出した暗がりの中にひとり閉じこもり、ひどく重い扉を閉める。どんなことをしても閉じることの出来無い耳は、無視するという意志によって感覚を切ることができた。
そんなことをしていたら、神楽は自分でもそこから出難くなってしまっていた。出たところで、気持ちの真ん中にあるいやなものはまだ無くなってはいなかったから、同じことを繰り返すだけなのだけれど。ふと気付けば午後の授業の終わりを教えるチャイムは鳴り終わっていて、けれど神楽は当然みたいに時間の経過を感じていなかった。ざわついた放課後の空気も、すぐにひそひそとどこかへ消える。なんだか、今の自分はでろでろだと、神楽にはそう思えた。でろでろで、どろどろだ。ビーカーの底に融け残った食塩の色が白ではなく黒で、それを溶かした水の色が透明ではなく絵筆を洗った後のようにぐちゃぐちゃだとしたら、今の自分は、そんなビーカーの中身によく似ている。自分でそんなことを考えて、神楽はまたすこし食塩の色を暗くし、絵具水の透明度を下げた。
そういう時に聞こえたのが、聴きなれた低い声のみじかい質問で、神楽は放課後なのにこの教室にまだひとが残っていたことと、それが聞こえたこと、二重に驚いて息を詰めた。
……うさぎ、撫でるか、
その言葉の最後に疑問符が付いたのか付かなかったのかは、ひどく曖昧だ。巻き戻して再生した所で、きっと分からない。それでもそれは自分に向かって問われたものだと、でろでろでどろどろな部分とは全く別のひんやりとした部分で、神楽はきちんと理解していた。
固い机の上に両腕を折って枕にして頭を載せて何も見えないように何も聞こえないように睛を閉じて気持ちを閉じて、そのくらい念入りに扉を閉じたというのに、それなのにその言葉が聞こえたのは、左斜め後ろ、という極近いところからそれが発せられたから、なんていう理由ではない。もちろん、いつも騒がしいZ組の教室から放課後らしくひと気がなくなってしまっているから、なんていう理由でもなく、それはもっと近いところにあるかんたんなものだ。何となく、よりもはっきりとそう思えた神楽であるが、そこで考えることを止める。ごそりと身体を起こした。
睛を開けば、週番が手抜きをしたのか白くくすんだ黒板が見えて、教卓の上に散る何枚かのプリントと、誰かが作った紙飛行機が眼鏡の円いレンズ越しに見える。左斜め後ろから、ガタと椅子の動く音が聞こえた。それから立ち上がった彼が右回りに歩いて近付くのが何となく神楽には分かって、そこでやっと、ウン、と神楽はみじかい質問へちいさな返事をする。でろでろでどろどろな何かが、からだのどこかからあふれ出てくる。そういうことを少しだけ想像したけれど、そんなことは実際にはなくて、左斜め後ろにいたはずの彼は、そのときにはもう神楽の右斜め前に立っている。少しだけ不本意な顔をしてそれでも右手を差し出していたから、神楽は自分の右手でその手を取ってから、自分も椅子を立った。
ガタと、よく似た椅子の動く音がする。つないだ土方の手は、すこしだけ、あたたかい。