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物体もじ。
物体もじ。
novelistID. 17678
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my precious

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 光も闇もない。音もなければ、匂いもない。

 そんな中で、ただ、温もりだけがあったとするなら、どうだ?

 手を伸ばしても触れられるわけじゃない。それでも、自分のすべてを、しっかりと包んでくれているのだと、それだけがわかっていたのだとしたら、どうだ。


 その存在を、愛しく思うのは、当然のことだろう。





 my precious





「ちっ……ここもか」



 手にした拳銃の残弾を確かめる。もとより装弾数の少ないタイプであったのが、もはや頼りないとしか言いようのない有りさまだ。

 たかだか2発では、あまりにも心もとない。次に調べる部屋に何か武器があればいいのだが、と翔は思った。

 油断なく周囲をに視線を走らせる瞳はきりりと切れ、真っ直ぐに揃えられた黒髪の縁取る頬には、余裕と少しばかりの緊張が刻まれている。

 制服である緑のブレザーは少しばかり鬱陶しいが、短めのプリーツスカートは存外に動きやすいものなので、プラスマイナスゼロ、と言ったところか。


 軽く笑うようにと目を細めて、無造作に銃を構えた。シングルアクションでぴたりと照準を合わせ、次の瞬間にはためらいもなく引き金を引く。

 ぱん、と軽い音がして、手首が跳ね上がった。その音と発射ガスに叩かれるように、目の前に迫っていた不気味な化け物が崩れ落ちる。

 残弾は1。緑色に変色した皮膚から黄色の体液が染み出すのを確かめて、翔は軽く息をついた。


 まったく、この身体は柔だ。銃を撃てばその衝撃を逃がすのにも苦労するし、格闘にはなおさら向いていない。仕方のないこととは言え、こんな条件で化け物たちの中を突破しなければならないのかと思うとさすがにうんざりする。

 それでも、一応の安全を確保した室内を漁るうちに、何の変哲もないデスクの抽斗の中にショットガンを発見し、酷薄な笑みを浮かべた。



「あるとこにはあるもんだな」



 拳銃とは比べ物にならない質量と破壊力を持つ火器は、見るからに頼もしい。装弾数が少ないのが玉に瑕だが、人間と違ってどこが急所かもわからない化け物相手に無駄弾を撃つことと比べれば、遥かに効率はいいに違いない。

 機嫌よくショットガンを引っさげて、いかにも何かありそうな顔をした書類の束を取り上げた。



「HU599菌について……ね」



 ようやく核心に近づいてきた。

 その手ごたえに、翔はひっそりと口唇を吊り上げた。











 突然目が開いたときのことを、きっと自分はいつまでも忘れられないのだろう、と思う。

 温もり以外に何もないところで微睡んでいた自分に、唐突に襲い掛かった衝撃。


 「優」が、危ない。


 それは、あれこそが恐らく、本能というものだろう。理由もなく浮かんできた言葉だけが、自分のすべてだった。

 そして、自分のすべてになった。


 恐怖と怒りに促された目覚めは唐突。

 心地好い場所から引きずり出されたことに、そして、そうしなければならないほどに「優」を追い詰めた状況が、ひたすらに腹立たしくてならなかった。

 「優」を守る。それが自分の存在意義なのだと、目覚めて初めて、明確に定義した。

 単に他にすることがないからなのか、それともその為に生み出されたのか。そんなことはどうでも良かった。大切なのは、ただひとつだけ。自分にとって、「優」が大切だということだけだ。


 御堂島優。その名のとおり、心やさしくおとなしい少女。何も知らず、知らされずに育ってきた、翔の「表側」。


 今、翔が動かしている身体は、その優のものだ。柔らかな身体も、本来は気弱な微笑を浮かべている顔も、明らかに少女のもの。

 翔は自分自身を男であると認識しているが、その自分が一体何なのかは、取り立てて深く考えていない。

 その手の専門家であれば、二重人格とでも診断するのだろうか。表層とは性格も性別も異なる人格を持つという症例などは別段珍しくもないだろう。

 そんなものとは違う、という意識はあるが、だからと言って、どうだということもない。

 重要なのは、翔にとっては優が大事だということと、幸いにして、翔には優を守る力があるということ。


 そのために、翔がいるのだと、そのことだけだ。


 最初のときも。

 それから、あの忌々しい鷹野の家でも。

 他の何からであっても。



「緑の皮膚に黄色の体液。一体誰の趣味なんだかな」



 ぐい、と倒れたものを踏み転がして、一人ごちる。

 明らかに人間ではない色彩に変わってはいたが、形はヒトのものだ。ごくふつうの五体を持ち、服装も尋常のもの。

 けれど、彼らがごく普通の意味で「生きて」いないこともまた、明らかだ。

 言葉を失い、意識もあるのかどうかは不明。ひたすらに生あるものに襲いかかるだけのものを、「生き物」と表現するには無理がある。


 足に力を込めると、黄色に染まった白衣を纏った皮膚がぐずぐずと崩れた。病院に勤務するに相応しい衣装も、こうなってしまうとグロテスクなだけの代物でしかない。


 それにしても、と翔は思う。



「東京で問題が起こって、鷹野の家も手が回っていた。挙げ句に運び込まれた病院までこの有りさま、な。さて、どこからどこまでが誰の企みだ?」



 ボルトを操作して次弾を装填。

 軽くはない手応えを確かめて、次へと向かう。


 いや。向かいかけて、ふと眉をひそめた。

 内側から、声が聞こえる。

 過ぎた恐怖に縮こまっていた優が、落ち着いて自身を取り戻そうとしている。


 翔にしてみれば、こんなにも危険な場所を優に歩かせるなど、言語道断だ。ろくな抵抗のすべも持たない優を「一人」で放り出すなど、出来るはずがない。

 けれど、それと同時に、翔はどこまでも優には甘かった。翔の中に閉じこもって恐怖に打ち震えている間はともかく、とりあえずその恐怖が過ぎ去り、再び表に出ることを優が望めば、どれだけ不安で不満でも、その意志には抗いきれない。


 もしかすると、それでも、本気で優を出すまいと拒めば、叶うのかもしれないけれど。

 翔の中の、優のいる場所。そこはきっと、昔からずっと、今でも、翔がいるのと同じ、そうでなくても良く似た場所であるのだと思う。


 光も闇もなく、音も匂いも何もない場所。


 きっとそんな場所に、優は耐えられない。

 優の中であればこそ、翔は安らぎさえ覚えていられたけれど、翔の中で優が安らげると、そう信じきることは自分でも難しかった。

 やさしく臆病な優にとっては、翔もまた、怖い存在なのだと理解していたから。


 だから、翔は外に出ようとする優を、突っぱねることなどできない。



「……ちっ」



 だから今も、せめてこの付近にはもう危険がないことだけ確認して、翔は優に身体を明け渡すことにした。

 優の匂いとぬくもりがおずおずと翔の意識をくるんで、中へと潜っていく。

 代わりに浮上していく優に、届くはずもないのに手を伸ばしながら、翔は思った。



 わかっている。
作品名:my precious 作家名:物体もじ。