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そこまでの距離

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1. 懸垂線





「蛍」
 と呼ばれて飛び出すことが近頃めっきり多くなった。沢木に向かい笑顔を作りながら、僕は欠伸を押し殺す。生活リズムそのものは相変わらずのんびりしているものの、近頃は大学にもぽつぽつ顔出しをはじめたのであくまでも夜中心の二重生活は俄かに慌ただしくなってきた。そうして当たり前に、あの日のキスからは何も起こらなかった。驚いてしまう程平和に流れ去っていく日々がすこしだけ歯がゆい。
「蛍ってば」
「あぁ、そうだね」
「……聞いてないんならそう言えよ」
 怒ったような口調に苦笑を浮かべ軽々しく謝る。有り難いことに沢木は今のところ僕との日常を続けてくれるつもりらしい。僕とて無論その予想に寄り掛かってキスなどという暴挙に走ったのではあるが、それはやはり有り難いことに違いなかった。
 もっともある意味、沢木の「普通」は当然だとも言える。僕はまだ彼に告白――何を言うのかは知らない――をしていない。だから彼が僕を意識するはずもない。結局一瞬の驚天動地よりも、積み重ねてきた幼馴染み同士の歴史のほうが重いのだ(ああもしかしたらこれだって当たり前なのかも)と知ったのは、一時的に菌が見えなくなった彼が日吉酒店へ僕をたずねてきたときだった。
 あのときも、沢木は酷く何気ない口調で僕を呼んだ。彼は僕の名を呼ぶことを信じてさえいない。「蛍」という言葉は彼にとって訓練なしには使えない呼び出しの呪文ではない。生まれたての赤ん坊が呼吸をしようと啼くのと同じように、さすれば満足が得られる本能の一部だ。些か自己中心に過ぎる解釈ではあるが、僕は自分で真実の案外近くを掘り当てた感触を持っている。だからといって僕が救われることはないのだけれど。
「蛍、」
 今度は何。尋ねる前に沢木はさっさとひとり話し出す。相変わらず苦笑を浮かべ、或いは文句を言われて真面目な顔で相槌を打つ僕。上等だ。きっといいバカップルになれる。
 昔の話。好きならそうと言えばいい、と、かつて自分の前に代わる代わる立ったクラスメイトの女子たちに僕は思っていた。好きならば、はっきり好きだと言えばいい。
「好き、ね」
 たぶん、傲慢だったのだろう。そして苛ついてもいた。幼馴染みに対する捨てられた釣糸のように絡まった感情を処理する手立てがなかった。今もまだない。
 もしも好き、を口にしたのならば。
 沢木は流されてくれるだろうか。分からない。
 もしも好き、を口にしないならば。
 僕は後悔するのだろうか。これも分からない。
 ただ、今は側にいることしか出来ない。思いが満ちていないのかもしれない。
 ――もう、何年もこうしたままでいるのに?
「蛍、お前今なんて?」
「なんでもないよ。それより沢木、早く帰ったら」
「なんだよ、邪魔なのかよ俺が」
「端的に言えば」
「……あーそーですかっ分かりましたよこの薄情者がっ」
「もう暗いからね、送って行こうか」
「いい」
「送り狼はやらないよ」
「……阿呆かお前」
「え、なんで」
「俺とお前が並んでたら、どう考えたって送り狼にされるのは俺だろ」
 よいしょ、なんておじさん臭い音を発しながら沢木が立ち上がる。僕は無意識のうちに腕を伸ばしていたが、そのことに気が付くと直ぐに下ろしてしまった。諦めることも思い切ることも出来ない自分のように中途半端で、惨めな仕草だった。
 本当は、本当はそうじゃないのに。僕の話を聞いてよ沢木。本当は行って欲しくなんかない。ここにいて欲しい。ずっと隣にいて欲しいんだ。なのにどうしてなんだろうね、口が動かないんだよ。まるであのころ告白してきた女子たちみたいだ。
「………………」
 僕は笑顔でひらひらと手を振った。
「蛍、ちょっとアレみたいだぞ」
「アレ?」
「ほらあのとき、及川がいた――お前が『いってらっしゃい、沢木君』って」
「……手は、振ってなかったと思うんだけどな」
(だけど確かに、あのときも言いたいことがいっぱいあった)
「そうだっけ」
「うん、たぶん」
 去っていく背中をぼんやりと見つめていた。ひとりっこの自分に弟がいたならばあんな感じなのだろうとの予想はたぶん沢木がふたり兄弟にしろ末っ子であるせいだ。今も守ってやらなければ、との思いはなかなか消えてくれない。いつかテレビで見たドラマではこの感情を共依存と呼んでいた。案外当たっているのではないだろうか。弟分と、幼馴染みと、親友と、すきなひと。これだけあれば離れられないことくらい嫌でも分かる。しかしだからと言って離れないわけにもいけない。そうこうしているうちに世界は回り、この思いもまた僕の心を刺し続ける。告げてしまえ。さらってしまえ。こんな風にいくつもの関係性に宙吊りにされた僕は、やはりどうしようもなく惨めで馬鹿な姿をしていた。


作品名:そこまでの距離 作家名:しもてぃ