そこまでの距離
「そういうことじゃなくてさ。なんていうか、俺が考えてることは菌と同じで、口に出さなきゃ存在すら蛍には気付いてもらえねーんだって、思ったんだ」
僕の表情を伺うように彼が首を傾げる。その言葉を否定しようとして出来なかった。沢木のことならなんでも分かっている。昔みたいに自惚れることは、今はもう出来そうにない。
今日の出来事ひとつをとってみてもそうだ。僕のしたことといったらなんだ?人形焼きを食べ沢木の入れた茶を飲み相槌を打つ。しかも相槌はさっき打ち損ねたばかりだ。少しずつ、どこからともなく忍び寄ってきた不安が薄っぺらい胸を浸蝕していく。今日はパットを入れてくるべきだった。ばかみたいに装飾過剰のスカートの裾に意味もなく触れながら考えた。
沢木は、何を言おうとしているんだろう。
「だから、俺も言うことにした。蛍に気付いて欲しかったから」
もしもそれが、一度は望んだ「いらない」の宣言だったら、僕は。
「蛍」
(どんな顔をすればいいのか、分かるわけないじゃないか……)
「俺、蛍がそんな顔してるのを見るのは、やだ」
ぎこちなく、スカートの裾にあった手に沢木の手が添えられる。僕は動くことすら出来なくなっていた。ただ息を詰めて、耳を済ませて聞くことしか出来なかった。理解することは難しすぎた。おずおずと頬に押し当てられた生あたたかい湿った感触を、しばらくの間それがなんであるかも分からずに享受した。
「さわ、き」
「下らないことなんか気にしてないで、俺を振り回してろ。俺はそーいうお前が、っうわ、蛍?!」
「ばか沢木。ほんと、ばっかみたい」
彼が僕に左右されるわけがなかったのだ。弟分も親友も幼馴染みも関係なくて、今は僕の目の前にいる沢木そのひとが、単純に好きだというだけのことなのだった。本当に今までうじうじ悩んでいたのは、たったそれだけのことだった。
――だからたぶん本当の馬鹿は僕なんだろう。
首に手を回して、僕は沢木を閉じ込めていた。苦しがってじたばたするのにも構わず全力で抱き締める。どちらがあたたかいのか分からない微妙な感触が、やがて溶けあっていき、僕らの体温は同じになっていく。小さな部屋の中で、ふたりのいる場所だけが息づいている。沢木と僕の間を隔てる何もかもをなくしてしまいたいような気さえした。
だけど、ここは現実の中でもある。名残惜しくも手を離すべきだと感じたころ、僕は大人しくその心の声に従った。ひとつになってしまったら、沢木の顔が見られなくなってしまう。目を合わせようとすると、何故かつい、と視線を逸らされた。ちなみにお互い手は握ったままである。あんなに可愛いことを言われて、あっさり沢木から手を引ける僕ではない。今まで悩んでいたのが嘘みたいに沢木に触れながら、ああ今まで自分は我慢していたのだな、と思った。
「ばかは蛍だろ。ひとの話は最後まで聞きましょうって、小学校で習わなかったか」
「……覚えてないかも」
「とにかくっ」
何やら気張りながら沢木は咳払いをしたものの、次の瞬間には目を泳がせはじめていた。もう何度目かも分からない唸りを聞きながら、待つ。それくらい簡単だった。今は迷うことも悩むこともない。だって、今までずっと待ってきたわけだから。沢木のその言葉を、ずっと。