そこまでの距離
4. Would you call me if you need my love?
「……結城くん?」
はっと顔を上げると、及川さんと武藤さんが心配そうな顔をしていた。どちらに名前を呼ばれたのかは分からなかった。
「大丈夫?」
「こんなところで寝てたら、風邪引いちゃうよ?」
よってたかって心配するような言葉をぶつけられて、僕は更に混乱を極めた。自分のおかれている状況が上手く掴めない。どうやら昏睡に陥っていたらしいが、それにしても一体彼女たちは何故こんなにも変な顔をしているんだろう。
「僕は寝てた、んですか?」
口に出してしまってから、しまったと思った。ふたりの女が同じように瞬きをし顔を見合わせる。いたたまれなくなり目を逸らすと本来の目的である風呂敷に包まれた酒瓶が目に入った。ものすごくほっとした。
「あの、これ」
武藤さんに差し出す。それだけで彼女は理解したらしく曖昧に頷いたもののやはり変な顔のままだ。及川さんは言うまでもない。
仕方なく僕は自分の顔を触ってみたものの、妙な感触はない。ただ少しばかりべたべたしただけだった。それを見ていたふたりが僕を置き去りにして尚更深刻そうな顔になる。
「沢木くんか」
と及川さん。
「沢木くん、だね」
と武藤さん。
アイコンタクトをしてここでふたりはようやく違った行動を開始する。及川さんは今来たほうを引き返しはじめ、武藤さんは風呂敷を抱え上げた。僕が手伝おうとしたらきっぱりと断られた。
「遥さんには言っておくから」
「……あの、さっきから何が起きてるんですか、」
「何も」
又もや無駄にきっぱりと言い切る。こうなれば何も聞き出せないであろうことは目に見えていたので、ため息を吐いて立ち上がることにした。一体沢木と荷物とに何の関係があるっていうんだろう。
と。
「結城くんっ!よかった逃げてない武藤さんグッジョブ!!」
消えた武藤さんの代わりに戻ってきた及川さんが、手を繋いでいた。
誰と?
確かめるまでもない。
「ちょ、おい、及川!お前一体」
口を開きかけたところを、唇に彼の人差し指が宛てられて音が途切れる。
「あーうるさい。いいからちょっと私の目の前から消えて。今直ぐ。ふたりまとめて」
「あのなあ!ひとをいきなり連れ出しておいてなんだ、これ、は」
自分の人差し指を見つめて、沢木が幾度か瞬きをする。
が、それ以上の解説はなかった。ふらふらと揺れる沢木の影。そうして未だ呆然としたままの僕の前にしゃがみ込む。唇の感触は既に離れていた。どうやら頭を抱えているらしい。あーとかうーとか、唸る音がした。僕の目の前で。沢木が。手を伸ばさずにはいられなくて、伸ばした手を掴まれて、思わず息を飲んで、それがものすごい力で、見つめられた。沢木だった。懐かしくあたたかい瞳だった。僕が逆らえた例のない、黒々とした迷宮。
「なぁ、蛍」
ここは酷く寒い。だってこんな風に身体が震えているのだ、寒くないわけがない。
「なんで……」
*
目の前には熱燗ではなくティーパックで入れられた日本茶があった。連れられるままにはじめて上がった沢木の自室は意外とすっきり片付いているワンルーム。もしかしたら菌にせっつかれて片付けたのかもしれない。そっと、もしくはおそるおそる手のひらで空気をさらってみる。勿論僕にその存在が感じ取れるわけもなかった。沢木はまだキッチンの辺りで何やらごそごそやっている。時折不安そうな目をしてこちらを覗いている。逃げられるとでも思っているのかもしれない。
(……駄目だ)
ともすれば思考がおかしな方向へ走ってしまう。温い茶を啜りながらぼんやりしていると、沢木が何やら白く薄い紙の箱を持ってこたつに潜り込んだ。蓋を開けると中にはどこの観光地でも売っているような人形焼きが行儀よく並んでいる。数にしてざっと30個というところか。早速中のひとつを手にとり個包装を破った沢木が真面目な顔で言った。
「食うぞ、蛍」
「は?」
「じいちゃんが送ってきたんだよ。賞味期限が昨日だった」
今思えば、マスコミでやたら騒がれているとはいうものの焼き菓子の賞味期限なんていうのは一日二日過ぎたって平気なわけだったのだが、そのとき僕らは何故か必死になって人形焼きを頬張った。中身は沢木の好きなこしあん。もうしばらく和菓子は見たくない。今日の夕食はきっと取り止めだ。30個もあれば餡にもバリエーションがあるだろうという考えは甘く、結局最後のひとつまでこしあんだった。残ったのはやけにリアルな倦怠感と大量の包装紙。それだけで、部屋が一気に散らかったような気がする。
「お茶、入れてくるから」
「うん」
これもまた気のせいかもしれないけれど、話もしていないのに一旦はほぐれかけた空気が再び張り詰めたように感じた。目の前に今度は湯気をたてている湯飲みが置かれる。
話は、今度もはじまらなかった。ふたりしてゆらゆら揺れる水面を眺めている。
帰りたい、と思った。それは逃げたいということでもあった。
まるで初恋だった。まともに沢木の顔が見られずに、ひとりぐるぐると話の切り出し方を考える。そしてその考えのどれもが非現実的に思われてしまうから実行に移せない。やっぱり考えるべきではないと思う一方、考えずにはいられないよしなしごと。女々しいったらなかった。
「菌が、さ」
ぽつり。沢木が言葉を漏らす。
「え?」
「菌が見えるってこと、及川にはなんとなく隠してるんだけど」
「う、うん」
「最初は言いたくなくてさ、黙ってるうちに、なんつーか、逆に言い出せなくなって。で、思った」
空気中の菌を掴んだのだろう。沢木が手を差し出してくる。話にも、行動にもどう反応すればいいのか分からずに黙っていると、あっ、と彼は小さく声を上げた。逃げられた、とも。
「逃げられた?」
「んー……、なんか、よく分かんねーけど」
「いや、よく分からないのはこっちだから」
何が言いたいの、沢木。
結局はこらえきれずに促していた。すると沢木が軽く肩を竦める。もう一度、ここに座ったばかりの僕のように空気を手のひらで掠め、何かを掴んでいる指つきを僕に差し出した。勿論意味は分からない。
「………………」
「俺たちが考えてることってさ、菌みたいだよな」
「はぁ?!」
いつもより優に1オクターブは高い声でさえ驚きを表すには不足していたように思う。明らかについこの間まで菌が見える能力の如何について悩んでいた人間の台詞じゃない。半ば絶句した僕を横目に沢木は何やら語り出した。最初からよく分からなかった、沢木の部屋に上がった目的が尚更曖昧になっていく。
「俺から見たら、菌はここにある。けど蛍からしたら何も見えない。見えるのも当たり前だし、見えないのも当たり前。例えば俺が、ここにオリゼーがいるぞーって言っても蛍には実際にいるかどうか分かんないわけで」
「オリゼー?」
「あ、実はヨグルティだったりするんだけどな」
言うやいなや沢木の表情が軽く歪んだ。どうやら菌に文句をつけられているらしい。ついで、あー上手く言えねーと唸る台詞の続きを待つ前に、小さな違和感を潰しておくために口を開いた。先程から、僕は尋ねてばかりいる。
「けど、沢木はちゃんと見えてるんでしょう?なら僕がそれを疑う余地なんてないよ」