月華
雨の音が響いていた。おれは、旧校舎のまわりをひとわたり見まわり、非常口から校舎に入ろうとしていたところだった。
見え見えの殺気が背後から来た。ああ、また鋭くなっている。そう思いながら、紙一重でそれをかわした。
本来なら、豊かな裸身をさらしているはずのおれの女神が、ケタはずれの力を送りこんできているからこその芸当だ。殴りかかってきたやつには、拳がおれの身体を通りぬけたかのように感じただろう。
拳を引き、体勢を整えようとしている。待ってやってもいいのだが、おれはその時間を与えなかった。くだいてしまわないよう、細心の注意を払って、手首をつかんだ。
それなりに丈夫なあいてだが、今のおれはそれ以上にパワフルだ。ジェットエンジンが、体内でうなりをあげているのだがら、しかたがない。
とびのこうとした身体が、がくんとつんのめる。幼いかおに、驚愕の表情は浮かばなかった。目を伏せている。深い湖面のように静かな面だ。
我知らず、感嘆の声がもれる。今度は、逆に懐に入ろうと、地面を蹴ってきた。
せいいっぱい腕を伸ばしてやる。百六十センチにも満たないやつと、おれでは、リーチの差は歴然としていた。
はじめて、表情が揺れた。
「そのくらいにしておけ」
くわえっぱなしだったしんせいを、反対の手で取りさって、おれはそう言った。
*
「いいかげんにしろ、そろそろ諦めたらどうだ?」
やつを促して校舎に入らせた。もっとも、扉はあけたままだ。蛍光灯の無機質な明かりが、リノリウムの床を白く光らせていた。
「……」
手をはなしてやると、やつは少しあとずさった。オタフクのようにほっぺたをふくらませて、俺を見上げてくる。先ほどまでの能面のようなかおが、うそのように幼い。
答えなど聞く必要もない。まさに「みればわかる」だ。
苦笑して、一歩下がって校舎の外に出る。短くなったしんせいを足元に落とすと、念入りに火を消した。
じっと、やつは吸殻の行く末を見ている。ひろいあげると、おれの顔を見た。
「……旧校舎には近づくな、先生にも挑むなじゃ、俺にどーしろってゆーんですか」
微かに笑ったおれの態度に、眉を寄せる。
なんだか、中学生どころか小学生をあいてにしている気分だった。細く小柄な身体に、声変わりはあったようだが、それでも随分と甲高い声。なにより、くるくると変わる表情は、あまりに素直すぎた。
「大人しくしていろ」
「嫌です」
三年Cクラス、緋勇龍麻。四月からの転校生で、おれが担当しているのは、生物のみ。生物部部員と言うわけでもないのだから、さして接点はない。
ほんの一度のあやまちだった。どれもこれも、生意気なタバコ屋の若造が悪い。
こてんぱんにというべきか、完膚なきまでにというべきか。おれはこいつに、歴然とした力の差を見せつけてしまった。それ以来、この、ちんまい狂戦士(バーサーカー)は、ときどき、おれに襲いかかってくる。
正直なところ、そろそろ新月期はかんべんしてほしい。それほどに、やつは力をつけつつあった。
俺に襲いかかっているためか、はたまた、旧校舎でおいたをしているためか。「不良学生に絡まれても、臆する必要がない程度に強い」が、「格闘技の世界チャンピオンとまともに闘える」ランクにまでレベルアップしている。この恐ろしいほどの上達の早さが続くならば、野生動物と勝負出来るようになるのも間近だろう。
すでにそれは、人外だ。
亀の甲より年の功。時の権力者が放つ追っ手から逃げ切ったこともあるほどの経験を持つ俺にとって、新月時分のかよわい身体でも、こいつに遅れをとることはない。だが、その余裕もいつまで続くか。
いつも満月をねらって来てくれればいいのだが。それとも、そろそろ負けてやるべきか? いまの時期なら、痛覚はティラノザウルスみたいに鈍くなっているはずだし、目にもとまらぬと言うに相応しい動きも、コマおくりを見ているようなものだ。さして難事業でもない。
ポケットをあさって、あたらしいタバコをとりだし、火をつける。青酸でも吸ってみたほうが建設的な満月の夜だが、生活習慣は根強い。
「嫌、か。そうまでして、なぜ強さを求める?」
「だって、強くなりたい」
全く答えになっていないが、本人は大真面目なのだろう。苦笑するおれに馬鹿にされたと思ったのか、いよいよ表情が険しくなった。迫力などない。むしろ、可愛いというほうが、あっている。こわいかおというならば、襲いかかってきた時の無表情のほうが、よほど怖い。
「では、おまえにとって強さとはなんだ?」
「えーと、龍……みゃく? だっけ、ええと、我が物とする、と、それで、守護が……なんだっけな……」
少しずつ、声が小さくなっていく。まるで、尻尾を垂れる子犬をみているような気分だった。
「試験をしているつもりはないんだがな」
多分、誰かの受け売りなのだろう。春先からのおいたがすべて偶然の産物というのも、いささか考えづらい。高校三年のこの時期に、親に不幸があった等といった類ののっぴきならない事情があるわけでもないのに、わざわざ天候してくるというのもおかしな話だ。いわくがあるほうが自然だろう。不思議なくらい、よのなかには「この国、この世界を守護してきた一派」は多いものだ。多分、そのへんに何かつながりをもっているに違いない。
「強くなりたい」
やつはおなじことをくりかえした。首を傾げる。そして、ほんのすこし言葉をつけたした。
「強い相手と戦うのがすき」
根っからの狂戦士(バーサーカー)だ。動くものすべてに殴りかかるほど狂ってはいない。が、ちょっとでもてごたえのありそうなものには、片端からかみつこうとするくらいには狂っている。
己との力量差は問題ではないのだろうか?
大きく吸いこんだ煙を、やつの面を外すようにして吐き出す。あたりまえだが、味も素っ気もない。
「おれに勝てると思ったか?」
イエスならば、負けてやろう。これ以上、キチガイに絡まれるのはごめんだ。ノーならば……もう少し様子を見てやる。おれに夢中であれば、旧校舎に本腰をいれることもなくなるかもしれない。もっとも、それが裏目に出て、真剣に旧校舎で腕を磨こうなどとやりだすようなら、すぐにでも負けてやる。
少なくとも、おれは旧校舎で出会うどんなものよりも、てごたえのある対象のはずだ。
緋勇は眉を寄せた。
「勝てる。……そうじゃなきゃ、やだ」
ほぉ?
「最強は、一人で十分」
きっぱりと言いきってはいるものの、目線は泳いでいた。
「相手を把握すると言うのは、最強であるための条件ではないか?」
「……うー」
うなりながら、ぶつぶつ呟いている。本人は、内容までは聞こえていないつもりだろう。だが、残念なことに、今夜は満月だ。山のむこうでハリが落ちる音まで聞こえるようなおれにたいして、その認識は、甘すぎるといわざるをえない。
これで本当に高校生か。随分と幼稚なパラドックスに悩むものだ。
最強の条件は、たしかにそうだ。だが、相手の強さを把握すると、絶対的な力量差を認めざるをえなくなってくる。つまり、自分は、最強ではない。
そういった内容を、幼稚な言葉と推論で、緋勇はぶつぶつとくりかえしていた。