3-a
「そんなにたいへんなのか?」
「へっ」
「あら、シンドウ・スガタくん」
唐突に投げかけられた問いに対して、きょとんと睫毛を瞬かせたタクトは、影の正体に目を見開いた。少しつり上がり気味の綺麗なアーモンドアイが、猫の目のように縮みスガタを映す。
一度はカナコへ向けられようとしていたタクトの意識が完全にスガタへ移行している。ふたりが向き合って話す様子を見て、つまんない、とカナコの桜色のくちびるが溜息を吐いた。
「いや……」
言いよどんだスガタがちらっとカナコのほうに視線を向け、特に機嫌を損ねているわけではないことを確認し言葉を続けた。
「ワタナベさんのところでバイトを続けるのか?」
タクトもカナコへと視線を移す。長い睫毛に縁取られた彼女の茶色いひとみがニコッと細められ、タクトは先ほどカナコから誘われたアルバイトの件を思い出した。
「バイト代、二倍にするって言われたら行っちゃうかもしれないっ!」
「あらあら」
料金を倍にすることは簡単である。しかし即答しないのは、スガタがどういうつもりでタクトに声をかけてきたのか、興味をカナコが持っているからであった。タクトを再び船に招いて遊ぶことと、目の前のやり取りを最後まで見守ること、どちらがより愉快であるか。当然、カナコは後者を選んだ。
スガタが声をかけてきた理由など考えもしていないだろうタクトは、ずっとカナコに対して背を向け続けていた先ほどの態度はどこへ、アルバイト代を二倍支払ってくれるかもしれない人妻に対して必死に生活費が乏しいことを訴える。
しかしこのアピールを向けるべきは、黙ったままの二枚目であって、そのほうがずっと効果的であることを教えてやるべきだろうか? カナコはちらりと思って、即座にその考えを破棄する。
無視をされた格好になっているというのに、少しだけ向けてみた目線の先で、スガタはじっとタクトを見つめているのだ。熱くふるわれる少年の困窮具合をつぶさに聞き入っている。
楽しいのに、つまらない。相反した感情に、どうしようかしら、と自分のことであるのにまったく他人事のように胸中でカナコが呟く頃に、やっとタクトの話は終わった。
朝夕は寮の食事があるため、心配はない。問題は昼食である。校内の食堂を利用するにも、弁当を作るとしてその材料を購入するにも、お金がいる。現在無一文に等しいタクトにとって、昼食の調達方法だけが困りものであった。宣言通り弁当を作ってきてくれたルリには感謝しているが、ずっとお願いするわけにもいかないと、しょぼんと肩を落としながらタクトは彼にとっては悲痛な訴えを締めくくった。
「そうか……」
そうなのそれはたいへんねえ、とタクトの話した内容がどんなものであってもカナコはそう言っただろう。頷き返してやること、それがカナコの選ぶ反応だからだ。しかし、彼女の薄っぺらな同情よりも、ずっと真摯な気持ちに満ちた声が先んじた。
タクトの赤い髪が揺らぐ。視線が再びカナコからスガタへと移されて、今度こそ再び自分に意識が戻ることはないと分かった。カナコがタクトを見る目よりも、スガタがタクトを見る目の力が強い。あんなふうにじっとスガタに見つめられて、相手が男だからといって、意識を他へ向けられるだろうか。出来るわけがない。まるで互いに捉われて離れられないよう。ラブラブね。声に出さずカナコは笑んだ。
「何?」
「いや……その……生活費は来月には振り込まれるのか?」
「ああ、たぶんね!」
サムズアップしてタクトは大きく頷くが、語尾にあやしく不安な一言がついている。この返答を聞いて、大丈夫だと納得する人間はいないだろう。勿論、スガタもそうであったようで、タクトの言葉に彼は意を決したようであった。
「分かった」
「うん?」
「ツナシ・タクトくん」
「はいっ」
常に背筋の伸びたスガタの綺麗な立ち姿が、より美しいものになる。
椅子に体重をかけてスガタを見上げていたタクトの背も自然と伸びた。いや、気圧されて伸ばされたといった方が正しい。
「今月いっぱい、僕が君を雇う」
「へっ」
驚きに再びタクトの目が開かれた。ついでにぽかんと口も間抜けに開いて、スガタを見上げ続けている。タクトの視線を受けとめるスガタの顔は真剣で、彼が本気でタクトを雇うつもりであることは、第三者であるカナコにも分かった。
気付けば、タクトが最後の悪あがきで、帳面に写しかけていた黒板の内容は日直によって隅々まで消されてしまっている。あらかわいそう。けれど、これも、スガタに頼めば問題ないのではないだろうか。
「ラブラブね」
二度目は声に出して呟いた。しかしカナコの声は、珍しく誰の耳にも入らないまま教室の雑音に流れて消えた。