猛獣とその飼い主の話
その朝、田中トムは出勤してきた中学時代からの後輩の姿を見て、目を疑った。
後輩、平和島静雄は普通の人間ならば目を疑うような姿をしていることが頻繁にある。
その為トムは、最近ではすっかりと慣れてしまい、大概の格好には驚かなくなってしまっていた。
昼日中の街中でバーテンダーの制服を着ていようとも。
その制服が刃物でずたずたに裂かれていようとも。
オプションとして肩に街灯を担いでいようとも。
額から大量出血していようとも。
いつもの後輩だな、と思うだけのことになってしまっていた。慣れとは恐ろしいものである。
それは静雄の勤める事務所の連中も同じようなもので、彼が借金の回収からどんな姿で戻ってこようとも、驚くようなことは滅多になくなってしまった。
しかしこの朝は違った。
回収班の出勤は遅い。回収先の都合に合わせて仕事が遅く始まり、終える時間も遅くなる。
その為、静雄が出勤してきたときには事務所には既に所員は殆ど揃っていた。事務員も管理職も、そして直属の上司であるトムもだ。
その全員が、静雄の姿を見て我が目を疑った。
とは言え、普段以上に異常な格好をしていた訳ではない。少なくとも一般市民に警察に通報されかねない格好ではない。
単に、いつもは身に着けないようなアクセサリを一点着けていただけのことだ。
しかしそれが異様に目を引いた。
その点について、普段は気さくな女子事務員達も突っ込むことはできなかった。管理職達もとても突っ込めなかった。
静雄に向かって口にできるのは精々トムぐらいのものだったが、そのトムすら言葉を選びかねていた。
それ程に意表を突いた装飾だったのだ。
「あ~……静雄?」
「すんません、遅くなりました」
「いや、遅くない遅くない。俺がちっとばかし早く着いちまっただけだべ。でなくて、な。その……」
「はい?」
「あー……行くべ?」
「っス」
結局なにをどう訊けばいいのかわからず、トムは誤魔化すように腰を上げた。
素直に頷く静雄の首には、いつもの黒い蝶ネクタイの代わりに、透明感のある真新しい首輪が白く輝いていた。
その日の回収は比較的順調に始まった。少なくとも午前中は無事に乗り切れた。
静雄は何度もキレ掛けながらも暴れるようなことはせず、命知らずな債権者も本心では金よりは命の方を大事にしていることを早めに自覚してくれた。
そして、誰ひとり静雄の首に巻かれている装飾品について触れる者もいなかった。非常に幸いだった。
三件回収を終えたところで、トムは昼休憩を取ることに決めた。時刻はもうじき一時。非常に良いペースだ。
「よし、今日は調子いいな。そろそろメシにすっか」
「っス」
「マックが近いし、それでいいか?」
「――すね」
食べる物に拘らない静雄は、普段であればトムの提案にふたつ返事で頷く。自分で考えるのが面倒なので決めて貰う方がありがたいらしい。
しかしこの日はなにか言いたそうな様子で、白い首輪に指を引っ掛けながら視線を泳がせている。
「ん? 他に食いたいモンでもあんのか?」
「いえ――」
「じゃあ用でもあるか。行ってきていいぞ?」
「いえその――いえ、マック行きましょう」
静雄の同意を受けて近場のマクドナルドへと足を向けたトムだったが、後ろを着いてくる後輩の様子が気に掛っていた。無言で着いてきてはいるのだが、片手で携帯電話を弄っている。おそらくメールを打っているのだろう。
メールなどのちまちまとした作業は静雄の苦手とするところだというのに。
そういえば、今日はよく携帯電話を弄っている姿を見掛けたような気もする。三人目の《客》を《説得》し終えたときにもなにか打っていたようだった。
用があるのならば気にせず行ってくればいいのに、とトムは思う。
今日は唯でさえ順調だ。多少戻るのが遅れても元が取れるくらい、静雄は午前中に頑張ってくれた。
まあ、頑張ったのは取り立てではなく主にキレるのを我慢することだったのだが、そのおかげで損害も出ずに時間も早く終えられたのだ。充分評価に値する。
静雄は空いている方の手で白い首輪を弄っている。着け慣れない物だから気になっているのだろうか。
彼が携帯を仕舞ったところで、トムはさり気なく声を掛けてみた。
「どうしたんだ、ソレ?」
「え? ――ああ、コレっすか?」
言われてようやく首輪を弄っていたことに気付いたらしい静雄は、少し驚いたように応じた。
しかし気に障った様子はない。トムは内心胸を撫で下ろした。
「アクセとか、普段着けねえべ? 気になってんだろ」
本当に気になっていたのはむしろトムを含めた周りの人間の方だ。
静雄は普段、装飾品といった物を身に着けることがない。興味がないのか、暴れると壊してしまうからなのかはわからないが。
トレードマークのひとつであるサングラスも実用品だ。といっても日光を遮るのが目的ではなく、不用意に他人と目が合うとキレる可能性があるからだというのが静雄らしいが。
そこへ持ってきてのアクセサリだ。
しかも、首輪。何故か、首輪。平和島静雄に、首輪。
道行く人々も控えめに振り返って見詰めては、ひそひそと話している。
正直同行しているトムは、いつ後輩がイラついてキレるかとひやひやし通しだった。
「あー――少し違和感あるっすね……あの、仕事中に、マズかったっすか?」
「んな訳ねーべ。俺だって指輪してるしよ」
「……でなくて……」
「ん?」
「……いえ……」
なにやら歯切れが悪いが、突っ込んでよいのかわからない。
取り敢えず無難なところから訊いてみたいが、どこが無難なのかもよくわからない。
ともあれ当たり障りがないと思われるところをトムは突いてみた。
「それ、どうしたんだ? 買ったのか?」
「いえ、貰ったんス」
「へー……洒落たプレゼントだな」
誰から貰ったのか、との質問は可か不可か判別できなかったのでやめておいた。
いつ貰ったのか、ぐらいは訊いても平気かとは思ったが、少し湾曲して訊くことにした。
「初めて見るな。いつもは仕舞ってんのか?」
「いえ……今日は、土曜日なんで」
「……そうなのか?」
「っス」
「――そっか」
意味がよくわからない。というかまったくわからない。
最寄のマクドナルドまではすぐに着いた。近さで選んだ店なので当然だ。
飯を食いながら続きを聞くかどうかは迷うところだった。もの凄く気になることではあるが、どうしても確認せねばならないことという訳ではない。しかしきちんと確認しておく方が安全ではある。
「あ、静雄さん!」
そんなことを考えていた所為で、掛けられた声への対応が遅れた。
マクドナルドの店内に踏み入ろうとしたとき、背後であまり聞き覚えのない声が後輩の名を呼んだ。
しかし言葉の内容を読み取らず、縁のない声だけで関係のないものと判断して足を進めてしまう。
気付いたのはカウンター前の行列に並ぼうとしたときだった。
(静雄を呼んだのか?)
列に並ぶのをやめて振り返ると、店の表の歩道で後輩が誰かと向かい合って立っていた。
作品名:猛獣とその飼い主の話 作家名:神月みさか