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月華2

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おいたをするのも、大概にしておけと、顔を見るたびに言ってきたはずなのだが。現在の階層を考えながら、おれはそう思った。
 ほのかにあかるい空間に、人形(マネキン)がうちすてられていた。あまり、手入れの良い人形(マネキン)ではない。細い手首が、不自然に折れまがっている。もつれた赤い髪が、顔を覆っていた。
 おれはポケットからとりだしたしんせいに火をつけた。闇の生き物に限ったことではない。元来、ある程度あたまのあるやつは、相手の力量を本能とでも言ったものでかぎとり、それなりの判断をくだすものだ。その、ごくあたりまえのことができないのは、虫けらか、平和ボケした人間たちくらいだ。いや、虫けらとて、対等の土俵(ラウンド)にたつものに対しては、それなりの判断を下している。やはり、本能を理性で抑える人間だけが、自然界の鬼子なのだろう。
 当然のことだ。なぜなら、それが出来なければ、いきのびることは不可能だ。無鉄砲な輩がはびこれるほど、世界は甘くない。……はずなのだが。
 No rule without exception。おれは、唇からしんせいをひきはがすと、深さの知れぬ薄闇からむかってきたバカな蝙蝠にむけた。ねらいたがわず、火口は蝙蝠の顔に押しつけられた。。
 微かな苦鳴が糸を引く。そのまま、今度は左に位置をずらす。ぼんやりと浮かぶ、小さな焔が空間に軌跡を描く。またひとつ、蝙蝠の苦鳴があがった。
 長生きのついでに身につけた芸当だ。タバコの火は相変わらずいいぐあいについているし、本体のほうもつぶれていない。おしつけるものはなんだっていい。指先でもいい。うまくタイミングをあわせ、気を叩きつける。そのための媒体に、今はタバコを使っただけだ。もちろん、やり方が悪ければ、タバコは無残に消えてつぶれるだろう。そのあたりは、人狼の反応速度プラス経験の勝負だ。
 背後に蝙蝠が落ちる音を聞きながら、人形(マネキン)のもとに向かう。新しい馬鹿者に焔を押し付けたところで、灰を落とした。
 あと数歩のところで立ち止まった。すっかりちびたタバコを地面に落とし、念入りに火を消す。
 目の前にたおれているやつが眉をよせる表情が思い浮かんだので、拾い上げてポケットに収めた。
 息はある。ただ、いつものあけたばかりのソーダ水みたいな気配が、すっかり気のぬけた砂糖水になっていた。もともと淡い色の髪が、血で染まり見事な赤毛に変化している。
 ――だからこそ血に狂わされた蝙蝠たちが、おれにまでむかってきたんだが。普段ならば、おれにとって、ここ旧校舎は、無人の野を行くようなものだ。
 呼吸が浅く早い。いつもなら、空ぶかしをくりかえす車のように、わきいずるちからをもてあまし、ふりまき、あたりをまきこんでいる存在だ。だが、今は違う。そんな気配を持たぬ緋勇龍麻は、ほんとうに人形のようだった。
 薄明かりのなかに浮かぶかおは頼りなく、真神の制服を着た身体は細い。
「……立て。最強の存在(もの)が、この程度の場所で倒れる気か?」
 思いのほか、おれはこの「人形のような緋勇龍麻」に動揺していたらしい。愚にもつかないことを口に出してしまい、苦笑した。
 立てるならば、とっくに逃げ出しているはずだ。いくらこいつでも、命は惜しいだろう。手当てが早ければ、助かるかもしれない。普通の人間ならば難いところだが、こいつは異様な速さで強くなりつつある。ただびととは言えぬその進歩から考えて、なみより丈夫でもおかしくはない。
 ざり、と、不快な音がひびいた。血臭が強くなった。指先が地面につきたてられ、新しい血に染まったためだった。
「……」
 蝙蝠の鳴き声が響いた。目の前の背中が、びくりと動いた。
 おれは、抑えていた気配をほんのすこし開放する。蝙蝠たちがなきかわす声が遠ざかる。
 ひざが、地面をこする。ざり、ざりと、不快な音が続く。呼吸音が止まった。
 おれは、目を見開いた。
 まるで、進化の過程をはやまわしにしたかのようにぎこちない。やつは顔を上げ、上体をおこす。木星の重力にさからうみたいにして、上半身がおきあがった。
 頭から流れた血が、頬に固まっている。白い顔はすりきずだらけだった。能面のようなそれには、なんの表情も浮かんでいない。そう、これが、やつの集中のかおだ。
 ゆっくりとした深い呼吸が乱れ咳き込むたびに、身体が揺れる。ひといきに、上半身の位置が高くなった。べったりと血が染みた真神の制服をおさえ、やつはよろめく。
 もの言いたげに唇が震える。レーザー光線みたいな視線が、おれをつらぬいた。
 ふらりとかしいだ身体を、おれはうけとめる。能面のかおが、白く小さな子供の顔にもどっていく。
「……」
 おれはやつを横抱きに抱えた。
 うでのなかの身体は、ぐったりと弛緩し、あたりまえの死体とさしてかわりはなかった。



 旧校舎をあがるあいだ、おれは自らの気配を抑える努力をしなかった。それゆえ、まるで普通の建築物の階段をあがるみたいに、地上部にたどりつく。
 きしむ廊下は、ところどころ根太が腐りかけている。狼のあしどりで外に出ると、心地よい月の光に迎えられた。残念ながら、おれの愛する女神はダイエット中だ。櫛型の女神が、雲ひとつない空から微笑んでいる。
 かかえてここまで来るあいだ、緋勇はぴくりともしなかった。ただ、浅くせわしない呼吸が彼の生存を伝えていた。
「……さて」
 行き先としては、桜ヶ丘が妥当なところか。一般の病院に運べる怪我ではない。とはいえ……あまり動かしたくはない。
 瞬間、ほんの近くに人の気配を感じた。たとえ、女神が半分になっていようと、こんなにも近くにくるまで、生き物に気づかないとは。
 緋勇龍麻を両腕に抱えた状態で、おれは気配のほうを向いた。気配の主は、どうといったことのない人間のように見えた。細身の男だ。身長は高い。長い髪をうしろでひとつにまとめている。
 あやかしか? すこしばかり現代人にしては、気の制御ができすぎているようだ。こちらに歩を進める身のこなしも、随分としなやかだった。
「……止まれ」
 ほんの二メートル程の距離まで近づいたところで、おれは言い捨てた。おとなしく、その男は止まった。
 見かけは、若い。すこしばかり伸びすぎた前髪をおろしているため、表情はわかりにくかったが、どうやら友好的な笑みを浮かべているようだった。
「こんばんは」
「……なんの用だ」
 低くうなる狼の声そのもので、おれは言った。
「迎えにきました。その……龍麻を」
「何者だ?」
 冬眠から覚めたばかりの母熊みたいに気が立っているおれはそう尋ねた。少なくとも、彼の態度や言葉はとても穏やかだ。だが。
「保護者というところです」
 簡単なことだ。そうかといって、この、人形のような緋勇龍麻をひきわたしておわりだ。問題点は、いまここで、緋勇龍麻に真偽を問いただせないことだ。そして。
「保護者?」
 とても血縁者とは見えなかった。線香花火みたいにさわがしい緋勇龍麻と、この深い淵を思わせる男では、気配が違いすぎる。顔もさして似てはいない。もっとも、保護者が血縁者とは限らない。が、手がかりが少なすぎる。ついでにいえば、微かな死臭が気に入らなかった。
「……見えんな」
作品名:月華2 作家名:東明