月華2
「一応、二十歳はすぎているんですが、不足でしょうか?」
「住所は?」
すらすらと、奴は、新宿区四谷の住所を答えた。そして、電話番号までも。たしか、緋勇龍麻は四谷から通っているはずだ。だとすれば、こいつの住所か?
「怪我をしている」
「知っています。ですから」
にこやかに、答えた。あまり、心配そうには見えない。この男からは、緋勇龍麻の白い人形めいた顔が見えるはずだというのに。だからというわりには、随分とおちついていた。
こいつにかかわずらっているヒマはない。だが、両腕で荷物を抱えた状態で、その荷物を揺らさないようにしての荒事は、結構な難問だ。
「連絡をいれよう、あとで」
救急車もよべない。裏道を疾駆するのが、おそらくは正解だ。狼の脚力をもってすれば、桜ヶ丘は目と鼻の先みたいなものだ。俺が、電話番号を復唱すると、男は小さくため息をついた。
「龍麻を、渡してはいただけませんか?」
「重症だ。病院に急いでいる」
「大丈夫です」
男は、手を伸ばす。おれは、地面を蹴った。
まったく、見事なくらいの母狼ぶりだと、心のどこかが苦笑する。阿呆のように、男は、おれが頭上を超えるのを見ていた。驚いているようには見えなかった。
跳躍の衝撃を、やわらかくばねをきかせた膝で吸収する。その背に、男の声がぶつかった。
「……失礼ですが、あなたは?」
心配だと抜かすわりには、随分とあっさりしていた。そのことが、また、おれをいらだたせる。
「犬神杜人。この学校の教師だ」
走り出そうとした足をとめ、そう答える。応えは聞かなかった。その後、すぐに、おれは疾走にうつる。両の腕でかかえたものに、なるべく振動を与えない走りだった。
*
運良く、当直は院長だった。死体の一歩手前に見えた緋勇龍麻をみると、彼女は真夜中につれてくるほどのものかと言った。
阿呆のようにききかえすおれに、彼女はかすり傷だと言う。すくなくとも、スキーで骨折した粗忽ものよりは、よほど元気だと。
そんな馬鹿な。だが、あいた病室にねかされた龍麻は、たしかに呼吸もしっかりとしていたし、ほんとうに眠っているだけのように見えた。あきれたことに、不自然に曲がっていたように見えた手首さえ、当たり前にまっすぐにのびている。だが、脱がされた制服は、たっぷりと血を吸って固まっていたし、髪もまた、生臭く臭っていた。
ずいぶん派手に返り血を浴びたようだなと言い、院長は未熟者と龍麻を撫でた。龍麻はそんなやりとりも知らぬげに眠り続けている。
常ならぬ状態と言うのは確かだろう。疲れているのだろうなといって、彼女は出ていった。去りぎわに、おれがあんなにうろたえているのは珍しいと、目を細めた。
おれは、しんせいをとりだした。だがすぐに、病室であることに気づき、ためいきをついた。
確かに龍麻は、重症に見えた。いまにも死にそうだったはずだ。満月期の人狼の回復力のように、銃弾がぱらぱら落ちてくるような劇的なものではない。だが、十分に、異常な回復力だ。
規則正しく穏やかな呼吸が乱れた。龍麻が動いた。ぱちり、と、おおきな目がひらく。
「あれ? 先生……」
目をこすりながら、龍麻は身体を起こした。
「……」
「あれ?」
きょろきょろとあたりを見まわして、首をひねっている。
「――おいたは、いいかげんにしておけと言ったはずだが」
「あう」
悪戯がばれた子供のように――いや、悪戯がばれた子供の姿そのもので舌を出す。
おれはため息をついた。
横たわるマネキン。血だまりの上の白い顔。うちすてられた人形のように、不自然な方向にまがった手首。
頭をふって、おれは闇に浮かぶ光景を追いやった。
「なぜ、強さを求める」
能面のような無表情。レーザー光線みたいに俺をいぬく視線。よろめく足取り。…右足、左足…そして、右足。確実に前に出る歩み。
眉をよせ、舌足らずな説明を始めようとする龍麻を、おれはさえぎった。
「おれを倒すまえに、ザコにやられてどうする?」
いいつのるこたえなど聞かない。どうせいいわけだ。聞く必要もない。
「おれを、目指せ」
龍麻は、目を見開いた。おれは、何度もまばたきする子供の顔を見据え、ことばを続ける。
「おれだけで、十分だ。……雑魚とやりあうくらいならば、おれにかかってこい」
「……。……い、いいんですか!」
声は、純粋な歓喜に彩られていた。おれは、歯をむき出した笑いを見せる。この場には、おだやかな笑みよりは、いっそそれが相応しいと思われた。
「好きにしろ。もっとも、そう簡単にチャンピオンの看板を降ろすつもりはない」
今にも飛びつかんばかりに、龍麻は喜んだ。その頭に、左手を置き、黙らせる。
「ここは病院だ。……寝ていけ。起きてから、もう一度、院長に見てもらうようにな」
なおも、龍麻は興奮した様子で、色々と言い募ろうとした。だが、おれの片手に口を塞がれ、目を白黒させたあとで、大人しくベッドに横たわる。
呼吸が、深く規則正しくなるまで、おれは龍麻を見守っていた。
明日から、この幼い狂戦士は、今までにも増して襲いかかってくるだろう。そのさまを思い描き、おれは笑った。