3-b
「……何をしてるんだい?」
「わっ」
唐突にかけられた声に慌てて顔を上げれば、スガタがいつもの涼しい顔に小さく疑問符を浮かべて立っている。青い髪がさらりと彼の白い肌にかかっていた。反してタクトの頬は彼の髪の毛のように赤くなる。同時に、先日ジャガーにこっそり教えられたスガタとワコの関係がタクトの脳裏によみがえり、いたたまれない気持ちになった。タクトはスガタの許婚であるワコのくちびるを夢想していたのだ。
「いやっ! 何でもない!」
手の甲をくちびるにたっぷり押し当てていたのだ、何でもないわけがない。しかしキスの感触を知りたかったからなど言えるわけもなく。ワコのくちびるの感触を想像していたなど、ますますスガタに言えるわけがなく。何より一連の行動の理由を、スガタに気付かれたくない。タクトがぶるぶると頭を大きく振って否定すれば、鮮やかな赤が右に左に忙しく空を切った。
それを目で追いながら、スガタは何を考えているのか「ワコを見てた?」とタクトを一層焦らせることを平気で言う。図星をつかれてタクトの表情が引き攣った。
「やっ? そ、そんなことないよ~?」
口調も上擦り、隠し事があるとバレバレの態度である。少年の嘘がつけない態度にクスリと小さく笑ったスガタは、やはり分かっているのか分かっていないのか、鋭く確信をついてくる。
「……キス」
「へっ!?」
タクトの裏返った声とくらべて、スガタの声は飄々としたものであった。眦を優しく歪ませて、笑みをはいた顔がタクトをからかう。見た目は世間話をするように、他愛無い話をするように、本心を隠してタクトの反応を楽しんでいる。余裕のない少年が気付かないのをいいことにして。
「いや、そんなに驚くような話じゃないよ。前にワタナベさんがガラス越しのキスをしてたときも君はそんな反応をしてたね」
つい先日、驚くほど間近に見たセンセーショナルな光景。彼氏でもない生徒とガラス越しにくちびるを触れ合わせていたカナコ。ふたりが離れたあとのガラスには、カナコのくちびるの形がしっかりと残されていた。しかもカナコは齢十五にして人妻であるというのだから、あの時の衝撃といったら凄まじいものだった。タクトでは処理仕切れない現象というものは数多この島に転がっているのだとあらためて思ったものである。
セクシーなキスシーンを思い出してしまったせいか、タクトの頬が再びうす桃色に染まる。手で顔を扇ぎながら、タクトはちらっとスガタの出方を伺うように上目で彼を見た。
涼しい表情は、はじめて紹介されたときから変わらない。親密なやり取りをするほどの仲ではないものの、一晩屋敷に泊めたことが縁になったのだろうか。なにかとスガタはタクトを気にしてくれている。南十字学園での生活に不安があったわけではないが、よく声をかけてくれるスガタという存在はタクトにとってありがたかった。彼は良い少年である。島に着いていちばんに知り合ったのがスガタとワコで本当に良かったと思う。
しかしこんなふうに薄く笑んでタクトを見下ろすスガタは、何を考えているのか分からなくてほんの少しだけ苦手だ。スガタの肉の薄いくちびるが開くのを見て、思わず身構えてしまう。
「……タクトくん」
「……うん?」
スガタのくちびるは、きっとひんやりとしている。触れたら気持ちよさそうな。やけにスガタが溜めて話すせいで、ふっと緊張の糸がきれたタクトはぼんやりとそんなことを思っていた。しかし次にスガタの放った一言によって、少年は気持ちよいどころか背筋までピンと伸びる冷水を浴びせかけられたような心地になった。
「手の甲とくちびるじゃ全然感触が違うと思うよ?」
「っ!!」
やっぱり見透かされていた!!
あまりの羞恥にタクトの顔が三度赤く染まった。今日一日、頬の熱はさめそうにない。真っ赤になって照れるタクトを、スガタが心から楽しそうな笑顔を浮かべて見ている。
「それと、僕は、人工呼吸はキスに含まれないと思う」
「……それは許婚的な意味で?」
「僕の個人的な考えだよ」
恥ずかしさで瀕死の淵からの問いは、あっさりと返されてしまう。胸にもやもやしたものが生まれたのを感じながら、タクトはとうとうスガタの顔を見続けることが出来なくなって机に突っ伏した。