亡霊
「リシドの奴を知らないか」
声は泥のような眠りの上から聞こえてきた。遅れて意識が浮上するが、目を開けて見えたものは見慣れた船室の天井でもバトルシップの客室の壁でもない、一面の暗闇だ。その闇に溶け込むように、ひそりと佇む気配がある。そこでようやく先の問いが自分に投げられたものだと認識が追いつき、のろのろと身を起こして声の主をねめつけた。心の奥底深く、身体の周りを幽閉する隔壁は錐のかたちに閉ざされたままだ。それを認めてはっきりと敵意に顔が歪むが、相手はまるで頓着しない素振りで首を傾ける。忌々しい。見られない位置で、ぎり、と拳を握り締める。
「病室に行ったらいなくてね。誰が隠したのかと思ったんだが」
「…ここにいるボクが…外のことを知るわけないだろ」
「残念。オレは貴様の分身に会ったばかりだぜ。こいつの亡霊ごと葬り去ってやったがな」
そうしてじゃらりと音を立てて首元から取り出されたものに、息を呑む。隔壁越しに見せつけるようにして持ち上げられた、その手の下で揺れているのは、紛れもなく輪を模った千年アイテムだった。しくじったのか、バクラ!白い髪の面影に向かって思わず毒づくが、どうしようもない。まずい事態だった。あとボクが動かせる手駒は、遊戯の仲間の娘のみ。直接こいつを相手に、しかも闇のゲームに挑むのには、あまりに非力すぎる。
「デュエルは楽しませてもらったよ。だが、詰みだ」
大人しくそこで寝てなよ、主人格サマは。薄い笑みを口もとに貼り付けたまま、こちらの反応をそれこそ楽しむように奴は言う。その言葉とともに鎖を掴んでいた手が無造作に開かれ、首に下がったリングは澄んだ音を鳴らしながら奴の胸元へ収まった。闇の意思が棲む千年アイテム。ファラオの記憶の鍵。処分してしまわなかったのは戦利品のつもりか、それとも何か他の意図があるのか。バクラと名乗ったあの意思も、千年アイテムを集めることには拘っていた。闇の力の利用価値は自明だ。自分には目的などないと、こいつは言っていたが。
ボクの闇人格。
改めて対峙してみれば、そいつは見れば見るほど良く出来ていた。こうまで確りと独立した存在が、人の中に棲めるのか。そう思わずにはいられないほど。
なぜ教えてくれなかったんだ、姉さん。責められることではないが、どうしてもそう思わずにはいられない。ボクのことを思って隠したのか? それがボクのためだと? だが、こいつがボクの心が生んだ邪悪だというなら、それを抱いてボクはもろともに死ぬべきだった。五年前のあの日に。男の凶悪を目の当たりにするほど、そうとしか思えなかった。
「リシドはどこだ?」
「…生憎だったな、ボクは本当に知らない」
「おやおや。本当か?」
「貴様のいう根拠に答えて言うなら、分身は自律して動ける分 干渉の幅は狭いんだよ。表に出てる誰かのお陰でね」
そのくらい分かりそうなもんだがな。そう一息に吐き捨ててやれば、闇人格は意外そうに眉を持ち上げる。どうだかと笑って腕を組む姿はあまりにも自分のそれで、ボクは目の前の存在に思うさま呪詛を投げつけてやりたい衝動にかられた。忌々しい。そして呪わしい。せめてこの隔壁さえなければ、唾のひとつも吐きかけてやれたものを!
「詰みだって言ったな。勝手を言うなよ、貴様の好きにはさせない。まだ、遊戯がいる」
そしてボクには、遊戯の仲間であるあの娘を通して遊戯と接触する手段がある。ラーの能力さえ突き崩せば勝機は十分なのだ。どれほど千年アイテムの闇を得て力を増していようと、闇のゲームで勝敗を決するならば、確実に敗者を葬り去ることが出来る。ボクごとこの闇人格を。口を噤んで挑むように見上げれば、可笑しそうに奴が吹き出した。
「おい、復讐の矛先から一転 頼みの綱か?あれだけの犠牲を強いておいて!」
そのまま声を上げて笑い出す。かっと目の前が怒りに染まった。
「黙れ邪悪…!丁度いい、躊躇なく貴様を消し飛ばしてくれるだろうよ。ボクもろともな!」
「へえ、主人格サマはそう思うのか」
「何だと?」
「じゃ、今度試してみようか。オレも、丁度いい。ただ闇に葬るだけじゃあな。つまらない」
そう言ってうっそりと笑む闇人格の顔には、明らかな愉悦の色がある。ぞ、と背筋を冷たいものが走り、ボクは唇を噛んだ。確たる目的などない、そう言ったこいつは何を仕出かすか分からない。だが、遊戯を相手にして闇のゲームに挑むことは、確実な筈だ。こいつがボクの怨讐の念で生まれたというならば。矛先は、ファラオに向くはずなのだ。ボクの邪悪。
「主人格サマのお望みとあらば――」
沈黙したボクをどうとったのか。いやに揶揄を込めた口ぶりで闇人格は言葉を継ぐ。
「オレは喜んで闇のゲームで闘ってあげるよ……まあ、消えるのはオレではないが。ただ、それはオレの存在理念を、必要十分に満たすものじゃあない。あんたはオレを勘違いしている」
もってまわった言い方は的確に意図を読ませず、ボクは眉を寄せた。勘違いだって?その言葉の唐突さに違和感を覚える。解せぬまま黙っていると、不意に闇人格は、組んでいた腕を解いた。そのままボクを閉じ込める隔壁を指先で撫ぜ、ゆっくりと口を開く。
「オレのバースデイは六年前の貴様の誕生日だぜ。五年前、じゃあないんだ。なあ…この意味わかるかい?」
六年前の誕生日。墓守の儀礼。
父上。
頭の奥で閃いた可能性に、思い至ったその時、ボクはどんな表情をしていたのだろうか。ざっ、と全身の血の気が引いた音を確かに聞いた。
二心同体。その意味は解っている。目の前の男が、どれほど自分の呪わしいもので出来ているかも。五年前に父を殺したのはファラオの意思ではなく、自分を乗っ取った邪悪であることも、この五年間の自分の闘争は無意味だったという事実も、それは確かに絶望には違いなかったが、理解した。
しかし今脳裏を過った可能性は、そんなものとは比にならないほど恐ろしいことだった。自分の心の部屋であるはずの周囲の闇が、まるであの従たる試練の日の地下の暗さであるように思えて、知らず息が詰まる。何か言わなければと口を開こうとして、咥内がからからに乾いていることに気が付いた。逆に背中には幾筋も冷たいものが伝う。冷汗だ。その怪物のような恐怖を否定したくて、どうにか首を横に振ろうとするボクに、目を据えたまま、闇人格が口の端を吊り上げる。
「……全ての秩序の破壊、がオレの存在理念だ。まあ、それは貴様の望みから生まれたものってことになるが。そのオレにはな、けして破壊できない秩序があるんだよ、オレの主人格サマ」
ボクの「怒り」「憎悪」その結晶体。父を殺してしまったこいつは、六年前、あの儀礼の日に生まれた。ファラオの意思とボクが信じた、父の死の以前に。
「オレたちの人格交代のキーワード『怒り』と――貴様を守るこの隔壁だ」
父への怨讐の念。
ボクに、父への殺意があったから、こいつは
「……は……」
震えを帯びた両手を持ち上げ、顔を覆う。動作はまるでスローモーションのようにゆっくりだった。両膝をついたまま、力なくうなだれるそのさま。絞り出される声は、悲嘆だ。
「……はは……は、はは……ははははは」
声は泥のような眠りの上から聞こえてきた。遅れて意識が浮上するが、目を開けて見えたものは見慣れた船室の天井でもバトルシップの客室の壁でもない、一面の暗闇だ。その闇に溶け込むように、ひそりと佇む気配がある。そこでようやく先の問いが自分に投げられたものだと認識が追いつき、のろのろと身を起こして声の主をねめつけた。心の奥底深く、身体の周りを幽閉する隔壁は錐のかたちに閉ざされたままだ。それを認めてはっきりと敵意に顔が歪むが、相手はまるで頓着しない素振りで首を傾ける。忌々しい。見られない位置で、ぎり、と拳を握り締める。
「病室に行ったらいなくてね。誰が隠したのかと思ったんだが」
「…ここにいるボクが…外のことを知るわけないだろ」
「残念。オレは貴様の分身に会ったばかりだぜ。こいつの亡霊ごと葬り去ってやったがな」
そうしてじゃらりと音を立てて首元から取り出されたものに、息を呑む。隔壁越しに見せつけるようにして持ち上げられた、その手の下で揺れているのは、紛れもなく輪を模った千年アイテムだった。しくじったのか、バクラ!白い髪の面影に向かって思わず毒づくが、どうしようもない。まずい事態だった。あとボクが動かせる手駒は、遊戯の仲間の娘のみ。直接こいつを相手に、しかも闇のゲームに挑むのには、あまりに非力すぎる。
「デュエルは楽しませてもらったよ。だが、詰みだ」
大人しくそこで寝てなよ、主人格サマは。薄い笑みを口もとに貼り付けたまま、こちらの反応をそれこそ楽しむように奴は言う。その言葉とともに鎖を掴んでいた手が無造作に開かれ、首に下がったリングは澄んだ音を鳴らしながら奴の胸元へ収まった。闇の意思が棲む千年アイテム。ファラオの記憶の鍵。処分してしまわなかったのは戦利品のつもりか、それとも何か他の意図があるのか。バクラと名乗ったあの意思も、千年アイテムを集めることには拘っていた。闇の力の利用価値は自明だ。自分には目的などないと、こいつは言っていたが。
ボクの闇人格。
改めて対峙してみれば、そいつは見れば見るほど良く出来ていた。こうまで確りと独立した存在が、人の中に棲めるのか。そう思わずにはいられないほど。
なぜ教えてくれなかったんだ、姉さん。責められることではないが、どうしてもそう思わずにはいられない。ボクのことを思って隠したのか? それがボクのためだと? だが、こいつがボクの心が生んだ邪悪だというなら、それを抱いてボクはもろともに死ぬべきだった。五年前のあの日に。男の凶悪を目の当たりにするほど、そうとしか思えなかった。
「リシドはどこだ?」
「…生憎だったな、ボクは本当に知らない」
「おやおや。本当か?」
「貴様のいう根拠に答えて言うなら、分身は自律して動ける分 干渉の幅は狭いんだよ。表に出てる誰かのお陰でね」
そのくらい分かりそうなもんだがな。そう一息に吐き捨ててやれば、闇人格は意外そうに眉を持ち上げる。どうだかと笑って腕を組む姿はあまりにも自分のそれで、ボクは目の前の存在に思うさま呪詛を投げつけてやりたい衝動にかられた。忌々しい。そして呪わしい。せめてこの隔壁さえなければ、唾のひとつも吐きかけてやれたものを!
「詰みだって言ったな。勝手を言うなよ、貴様の好きにはさせない。まだ、遊戯がいる」
そしてボクには、遊戯の仲間であるあの娘を通して遊戯と接触する手段がある。ラーの能力さえ突き崩せば勝機は十分なのだ。どれほど千年アイテムの闇を得て力を増していようと、闇のゲームで勝敗を決するならば、確実に敗者を葬り去ることが出来る。ボクごとこの闇人格を。口を噤んで挑むように見上げれば、可笑しそうに奴が吹き出した。
「おい、復讐の矛先から一転 頼みの綱か?あれだけの犠牲を強いておいて!」
そのまま声を上げて笑い出す。かっと目の前が怒りに染まった。
「黙れ邪悪…!丁度いい、躊躇なく貴様を消し飛ばしてくれるだろうよ。ボクもろともな!」
「へえ、主人格サマはそう思うのか」
「何だと?」
「じゃ、今度試してみようか。オレも、丁度いい。ただ闇に葬るだけじゃあな。つまらない」
そう言ってうっそりと笑む闇人格の顔には、明らかな愉悦の色がある。ぞ、と背筋を冷たいものが走り、ボクは唇を噛んだ。確たる目的などない、そう言ったこいつは何を仕出かすか分からない。だが、遊戯を相手にして闇のゲームに挑むことは、確実な筈だ。こいつがボクの怨讐の念で生まれたというならば。矛先は、ファラオに向くはずなのだ。ボクの邪悪。
「主人格サマのお望みとあらば――」
沈黙したボクをどうとったのか。いやに揶揄を込めた口ぶりで闇人格は言葉を継ぐ。
「オレは喜んで闇のゲームで闘ってあげるよ……まあ、消えるのはオレではないが。ただ、それはオレの存在理念を、必要十分に満たすものじゃあない。あんたはオレを勘違いしている」
もってまわった言い方は的確に意図を読ませず、ボクは眉を寄せた。勘違いだって?その言葉の唐突さに違和感を覚える。解せぬまま黙っていると、不意に闇人格は、組んでいた腕を解いた。そのままボクを閉じ込める隔壁を指先で撫ぜ、ゆっくりと口を開く。
「オレのバースデイは六年前の貴様の誕生日だぜ。五年前、じゃあないんだ。なあ…この意味わかるかい?」
六年前の誕生日。墓守の儀礼。
父上。
頭の奥で閃いた可能性に、思い至ったその時、ボクはどんな表情をしていたのだろうか。ざっ、と全身の血の気が引いた音を確かに聞いた。
二心同体。その意味は解っている。目の前の男が、どれほど自分の呪わしいもので出来ているかも。五年前に父を殺したのはファラオの意思ではなく、自分を乗っ取った邪悪であることも、この五年間の自分の闘争は無意味だったという事実も、それは確かに絶望には違いなかったが、理解した。
しかし今脳裏を過った可能性は、そんなものとは比にならないほど恐ろしいことだった。自分の心の部屋であるはずの周囲の闇が、まるであの従たる試練の日の地下の暗さであるように思えて、知らず息が詰まる。何か言わなければと口を開こうとして、咥内がからからに乾いていることに気が付いた。逆に背中には幾筋も冷たいものが伝う。冷汗だ。その怪物のような恐怖を否定したくて、どうにか首を横に振ろうとするボクに、目を据えたまま、闇人格が口の端を吊り上げる。
「……全ての秩序の破壊、がオレの存在理念だ。まあ、それは貴様の望みから生まれたものってことになるが。そのオレにはな、けして破壊できない秩序があるんだよ、オレの主人格サマ」
ボクの「怒り」「憎悪」その結晶体。父を殺してしまったこいつは、六年前、あの儀礼の日に生まれた。ファラオの意思とボクが信じた、父の死の以前に。
「オレたちの人格交代のキーワード『怒り』と――貴様を守るこの隔壁だ」
父への怨讐の念。
ボクに、父への殺意があったから、こいつは
「……は……」
震えを帯びた両手を持ち上げ、顔を覆う。動作はまるでスローモーションのようにゆっくりだった。両膝をついたまま、力なくうなだれるそのさま。絞り出される声は、悲嘆だ。
「……はは……は、はは……ははははは」