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彼の唇

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流川くんは無言で頷いた。あたしはと言うと、よく喋る流川くんと、流川くんの足りない言葉を十分に理解してしまう三井さんの姿にあっけにとられていた。
体育館の人工的な光の中で三井さんは流川くんを見ている。流川くんも同じだ。さっき受け取ったボールを手の中で回したり、ときどき床についたりしながら三井さんと話している。
「バッカだな、お前。俺が一番バスケうまかったもん」
だから尊敬の気持ちなんてないと、三井さんは言外に告げた。流川くんの唇が歪んで・・・これって笑ってるのかしら?
「じゃあ、俺も先輩って呼ぶ必要はナイ」
「さっきの勝負のこと言ってんのか?だったらありゃタマタマだ、タマタマ。その前は俺が勝ったろうが」
「でも、昨日は俺が二回も勝った」
「ありゃ、二回目は無効だっつってんだろが。だから、同点。わかんねぇヤツだな」
怒った声を出して、三井さんが流川くんの頭をたたく。すると、流川くんがボールを持った手とは反対の手で三井さんの手を捕らえた。
「無効って、なんで?」
「てめ、わかって言ってんだろ」
「全然わかんねー」
三井さんのうろたえた声に、流川くんの冷静な声が重なる(あたしは会話の中身がよくつかめなかった)。三井さんは体をよじって手を振り解こうとするけど、流川くんの力の方が強いみたい。三井さんは忌々しそうに舌打ちした。
「見え透いた嘘つくんじゃねー!」
「嘘じゃねえ」
流川くんがなにか言葉を発するたびに、三井さんはどんどんうろたえていくようだった。そんな三井さんを、流川くんはじっと見つめている。焼き付けそうなほどに。
・・・この目は見たことがあるわ。あたしには決して向けられることはない目。バスケのときにだけ見られると思っていた、あの目。
ふわりと風が吹いて、あたしの髪をさらった。ざわざわと葉のすれる音がした。あたしの目は一瞬泳いで、音のした方を追った。
目を体育館に戻すと、流川くんが三井さんにキスしているのが見えた。
「・・・スキダ」


その後のことはあまり覚えていない。あたしはただ夢中でその場から走り去ったのだから。頭が真っ白のまま逃げて、逃げて、やがて部活にも入っていないあたしの息は乱れて、苦しくなっても走るのをやめなかった。家に帰るのはどうしても嫌で(お兄ちゃんの顔を見たくなかったのだ)、コンビニに寄った。ぜえぜえと息を乱して入ってきた高校生の女の子を、コンビニの店員はさぞかしいぶかしく思ったことだろう。
コンビニでは100円の棒アイスを買った。とぼとぼと家へ帰る道すがら、行儀悪くもアイスを食べながら帰ったわ。
すっかり夜になってしまった街は、半そでの制服だけじゃ少し肌寒かった。それでもぺろぺろと味のわからないアイスを舐めることはやめなかった。
すれ違った男の人が眉をひそめるのを見て、あたしは自分が泣いていることに気づいた。失恋がショックだったんだろうか。それとも、流川くんに男の恋人がいたことがショックだったんだろうか。
声をあげて泣きたかったけど、我慢してもくもくと歩いた。味のしなかったアイスはやがてしょっぱい味がした。
三井さんを優しく見つめていた流川くん。情熱的な強い目で見つめていた流川くん。
(・・・嫌い。嫌い。嫌い。流川くんなんて大嫌いよ)
心の中で何度もそう呟いて、本気でそう思えたらどんなに楽だっただろうと思った。何度も目じりを拭いて、あたしの手はアイスと涙でぐちょぐちょだった。
(嫌い。嫌い。嫌い・・・)
かっこいい流川くん。誰よりも高く飛ぶ流川くん。コートの中を走りぬける流川くん。汗を拭うその姿が素敵で、ポカリスエットをあおる喉元が綺麗だった。
(嫌い。嫌いよ、嫌いなんだから)
なんで三井さんなんだろう。なんで、男の人なの?男の子同士でキスするなんて、・・・恋人だなんて、そんなのおかしい。変だわ。
「おかしいんだから・・・」
とうとう立ち止まってしまった。アイスは残骸が棒に張り付いているだけだった。ぽとぽとと溶けたアイスが道路にシミを作る。
「好き・・・。好きよ、流川くん。大好き・・・」
初めてあなたを見たとき、すぐに好きになったわ。みんながあなたに夢中なのも当たり前よ。世界で一番かっこいい流川くん。
あなたがあたしに、あたしだけに好きって言ってくれたらどんなに幸せだったろう。
三井さんを消したかった。消しゴムで消すみたいに消して、流川くんの隣にあたしを書き込みたかった。なんて、うまくいかないのだろう。
明日、藤井ちゃんたちになんて言おう。あたしの失恋をなんて言おう。そう思うと情けなくて悔しくて、あとからあとから出てくる涙をあたしは手の甲で何度も何度も拭った。



現在、流川くんと三井さんがどうなっているかは知らない。でも、桜木くんの話によると三井さんは流川くんとよく一緒にいるらしいから(ミッチーの家に行くといつもルカワがいる、と桜木くんは憤慨していた)、続いているのだろう。
あたしはあの後、かさぶたになるまであの恋を見つめずに過ごした。藤井ちゃんたちにも何も言わず、数日間は部活も見に行かなかった(最近見に来ない、と桜木くんが悲しそうに遠まわしに言うので、見学を再開したのだ。けれど、見学をしに行っても三井さんだけは見ないようにしていた)。身勝手だった恋はそうして、流川くんになにも伝わらないまま終わりを告げたのだった。
そして、今。
あたしの前には桜木くんがいる。
本当に、遠くまで来たわ。あたしはこの人を幸せにしたいし、一緒に幸せになりたい。彼のバスケを見ていると、見惚れると同時に怪我しないかしらって不安になる。
「は、晴子さん?」
心配そうな声で桜木くんがあたしの名前を呼んだ。この人は、あたしが流川くんに夢中だったときからずっとあたしを好きでいてくれたのだ。
大切にしよう。
「なあに?桜木くん」
あたしは精一杯の笑顔で彼に微笑みかけた。
――――好きよ、桜木くん。
作品名:彼の唇 作家名:134