未定
4月。桜舞う季節、春―――。
胸元につけた制服用のリボンは、もうサラサラの新品というわけではない。
今年でちょうど、3度目の春を迎える程度に使い込んでいる。
(ん……、ちょっと曲がってるかな)
ふと、自室のスタンドミラーに映った自分が気になった。
いつもどおりの制服、スクールバッグ、靴下、髪。
そっとリボンを正すついでに、前髪も整えた。完璧だ。
スクールバッグを持って、部屋を出る。
「あ、琴音さん。もう出られるのですか?」
廊下に出ると、割烹着姿の家主がいた。日本だ。
「うん」
どうやら彼は、食べ終えた朝食の後片付けをしていた様だ。
手には盆を持っており、茶碗や皿といった食器が乗せてある。
「ハンカチ持ちましたか?あ、あと上履きも」
「うん」
ひとしきり忘れ物チェックをし、日本は満足そうに微笑んだ。
「そうですか。では、いってらっしゃい」
「うん」
最後の返事は、彼に背を向けながら放った。
特に嫌いという訳でもなければ、好きという訳でもない。
未だによく、分からないのだ。
彼―――、"日本"という国であり人である存在との付き合い方が。
「……はぁ」
彼女は駅へと歩きながらため息をついた。
何となく顔を上げると、街路樹として植えてある桜がきれいに舞っていた。
日本と名乗る人と共に生活を始めて、もう1週間になるだろうか。
"よろしくお願いしますね"と丁寧に挨拶され、こちらも二つ返事で了承した。
きっかけは、母からの手紙だった。
琴音の母は海外出張が多く、ほとんど一人暮らしのようなものだったのだが。
このたび彼女より、"出張が長引きそうなので、友人の元に身を寄せて欲しい"と伝えられた。
その友人こそが、日本という人だったのだ。
どうやら彼にも話が通っていたらしく、手紙が来た翌日には引越しの準備をさせられ。
あれよあれよという間に、日本宅へと引越しが完了し、今に至る。
問題は、その後だった。
その友人というのが人間だが人間ではない、という。
「あぁ、私は日本です。日本国。国ですが、ナリは人間ですので」
さらっと説明されたが、最初は理解に苦しんだ。
しかし見た目に反してすごく年を食っているなど、もっともらしいことを言われ。
それ以上疑ってかかるのも無駄で、何より母のご指名とあらば安全だろうと思った。
「はぁ、どうも」
半信半疑ではあるものの、こうして距離感の掴めない生活が続いている。
「Hello、日本!今度の世界会議のことなんだけどさ!!」
鳴り響く電話を取り、受話器越しに聞こえるはちきれんばかりのエネルギッシュな声。
「はい、はい……聞いておりますので、もうちょっと落ち着いて下さいませんか?」
「DDDDD!だって落ち着けないよ!ワクワクし過ぎてさ!」
「一体どうしたんです?アメリカさん」
日本は左手を黒電話の受話器に添えつつ、右手でメモの用意をした。
「ほら、今週の世界会議だけどさ。日本でやるってどうかい?」
「……え!?また唐突過ぎますよ……」
「ニュースサイトで見たんだ。今、君んちすっごく桜がキレイなんだろう?」
「は、はぁ、まぁ……そうですけど」
「会議が終わった後さ、オハナミと洒落込もうじゃないか!」
「お花見、ですか」
「そうそう!その後は君んち泊めてくれるなり、ホテル手配してくれるなりでOK!」
「……善処しま……」
「頼むよ日本!俺、やってみたいんだオハナミ!一度きりでいいからさ」
相変わらず頼み上手でジャイアニズムなこの青年、アメリカにも困ったものだ。
確かに花見は日本もやりたいと思っていた。
唸る日本の脳裏に、ふと一人の少女の面影が浮かぶ。
「あ」
「どうしたんだい?」
「アメリカさん、私……今、友人の娘さんを預かっていまして」
「あぁ、そういえば言ってたね」
「彼女未成年ですし、夜遅くまで家を空けるには……」
「OH!!なら彼女もオハナミに参加させれば良いんだぞ」
「えっ?」
「これでノープロブレムだな!じゃあ頼んだぞ、日本」
「ちょ、ちょっと待って下さいアメリカさ……」
「各国には俺のほうから連絡しておくよ!じゃあまた!」
ガチャン!と勢いよく会話が切れる。
日本は、頭を抱えながらひとつ深いため息をついた。
(とりあえず、琴音さんに話をしないと。)
日本はごそごそと、着物の懐から携帯電話を取り出す。
「ええっと、琴音さん、琴音さん……と」
画面のアドレス帳から彼女の名前を探し、カチカチとメールを作成する。
タイトルと本文を少しだけ打っていたところで、ふと手を止める。
自分と距離を置いている彼女が、果たして一緒に花見などしてくれるだろうか。
ましてや、自分だけでなく初対面になろう他の国々とも。
「あー、これは直接お話しした方が良いかもしれませんねぇ」
こめかみを押さえつつ苦笑して、またメールを打ち直す。
「ううむ……まあ、こんなもんでしょう」
日本は、ためらいながらメールの送信ボタンを押した。
(ん?)
ブルブルブル…と、自分の携帯電話がポケットの中で振動している。
割と狭い朝の通学電車内。
琴音は、周りの人に邪魔にならないように配慮しつつ、携帯電話のディスプレイに目を通す。
(日本だ。何だろう?忘れ物あったのかな?)
カチカチ、と本文を見る。
『今日の学校、午前中まででしたよね。
そちらまでお迎えに上がりますので、
一緒に昼食を食べに行きませんか?
今週末の予定について、
ちょっとお話ししたいこともありますので』
「…………」
琴音は、パタンと携帯電話を閉じて目を瞑る。
今日の予定は何があったか、記憶を巡らせて集中させる。
(確か、今日は何もなかった。……はず)
友達と昼から遊ぶ予定もあったような気がするが、それは後で本人に確認しよう。
多分、日本との昼食と話を優先しなければならないだろうが。
そんな器の小さな友人ではないので、あとで購買部のパンでもプレゼントしておけば良い。
ひとつため息を小さくついて、琴音は返事のメールを送った。
『はい。校門前の駐車場にいます』
(予定って……何か、面倒なことじゃなければ良いんだけど)
残念ながら、琴音のこの悪い予想は見事に的中していまうことになる。
メール送信完了したのを確認し、琴音は顔を上げた。
スーツを着た社会人、制服を着崩した学生、派手に着飾っているお姉さん、読書にいそしむお爺さん。
どことなく、生き急いでいるような疲れた顔、新生活に期待を隠せない顔、うつらうつらと夢の世界に漕ぎ出す寝顔。
ぼんやりと車窓を見つめれば、昇った朝日が眩しい。
風が吹くたびに揺れる桜と、散る花びら。光を反射して車道を走る自動車。
たまにガタンガタンと不意打ちのように振動する、この電車。
これが、日本なのだ。自分が17年間見てきた、日本という国。
それを体現しているのがあの老人だなんて、まったく信用できない。