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禁断の呪文

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 そういう関係になるのだとしたら、今夜あたりかな、という予感はあった。
 暮れゆく夕陽を見ながら、肩を並べて家路に着いた。夜が更けてもきっちりアパートの前まで送り届けられた。両想いが発覚してから今までずっと。
 歯痒いほどに健全なデートを重ねて、元々そういう方面に積極的でなかった帝人でさえいい加減じれったくなってきた頃に、何度目かの臨也のお宅訪問と相成った。帝人はソファで膝を抱えて、ポケットからケータイを出した。壁掛け時計は二十三時を指している。ケータイの時計共々狂っていなければ、現在はもう深夜と呼ばれる時刻になっている。
 でもまだ臨也から「送ってくよ」の声が掛からない。彼は時々帝人をかまいながら、パソコンに向かって何か作業をしている。
 明日は休日でゆっくりできるし、ということは?――お泊り決定?
 こちらに背を向けた臨也から、ふいに声が飛んでくる。
「あれは電波時計だから、君のケータイの時計よりは正確なはずだよ」
「だからどうして、こっちを見ずに分かるんですか」
「分かるよ。だって帝人くんのことだもの」
 どうせ単純ですよう、と腐ってみれば、作業を止めてパソコンデスクから立ってこちらにやってきた臨也に「拗ねないの」と笑って頭を撫でられた。あからさまに子ども扱いされているのに、嬉しがってしまうのはどうしたことか。あの臨也が、拗ねてみせたらかまってくれて宥めてくれて、普通に笑いかけてくれて、ごつごつで細い手のひらが帝人を愛でる。
 結局臨也ならなんでもいいんだろう。何をされたって許してしまう。こういう言い方をすると語弊がありそうだが、今のところ帝人は、臨也に猫っ可愛がりしかされていない。それを差し引いたとしても。
 うっかりろくな女性経験もないまま臨也と恋に落ち、大抵の経験を臨也相手に済ませてしまった帝人少年は、ああこれが色ボケっていう状態なんだろうな、と他人事のように思う。
 ほっぺにひとつキスをして、臨也はひょいと帝人をソファの上から立ちあがらせた。
「お風呂、入りなよ」
「あ、でも僕、着替えが」
 女の子みたいにお風呂に入るたび着替えなくても平気といえば平気なのだが、ましてや風呂に入った後で、一度脱いだ服をまた着るというのも気分のいいものじゃない。帝人の逡巡を遮ったのは、
「ん、んう?!」
 突然かまされたディープキスだった。
「ふ……、そんなこと気にしなくなって、どうせすぐ脱ぐことになるんだし。いいよね?」
「は……はい」
 自分を見下ろす、細めた目元に漂う幽かな色香。帝人はこくりと喉を鳴らす。やっぱり臨也はその気らしい。
 遅れて今さら羞恥心に頬を上気させながら、帝人はバスルームに向かった。

「……」
 高級ホテルもかくやの風呂場から出ると、シャツにハーフパンツにと、着替え一式がきちんと用意されていた。バスタオルで水気を拭いながら、ちょっと引いたなんてのはここだけの秘密だ。
「いや、ここは、人の好意は素直に受け取るもんだよね、うん!」
 簡易の寝巻き一式はユニクロで買ったらしい、ごくシンプルなもの。気合いの入りまくったお高そうな着替えでなくて、いろんな意味で心底助かった。きっとユニクロの前通りかかった時に、気まぐれで買っといたもんだよね、そうに違いない、だって臨也さんだもの――と努めて詮索はしないようにした。
「お先ですー」
「ん、今やってる作業、あともうちょっと片付けたら俺も終われるから」
「あんまり根詰めないで下さいね」
 自由業者は時間に縛られないようでいて、公私の区切りがつけにくいものなんだと臨也を見ていて分かる。彼の場合は、情報屋なんて特殊すぎる稼業だから、例外にも程があるにしても。
 室内のものは自由に使っていいと言われているので、一応「お水もらいますね」とだけ断って、キッチンの冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターのボトルを取り出して、食器棚から持ってきたグラスで水を飲んだ。ボトルを閉めようとしたところで、帝人の手からキャップが落ちて床を転がった。
「わっ」
 慌てて屈んでキャップを捕まえると、調理台の下、立っている人間からは死角となる隅っこに、小さな銀色の物が落ちているのに気づいた。
「……薬?」
 帝人は拾い上げる。錠剤が一錠分収まった銀のシートに、カタカナが印字されている。臨也の常備薬だろうか。あの臨也が?持病を患っているようには見えないが。
 リビングに戻ってきた帝人は、ソファセットのテーブルの上に出しておいたケータイを手に取る。便利な現代、一般に流通している薬剤なら、その名前を検索にかけるだけで名前から効能から副作用まで、素人が知りたい情報が手に入る。
 臨也はまだ手が離せそうにないし、キッチンの隅で見つけた謎の薬で、ちょっとした暇つぶしになれば良いと思っていた。薬はちゃんと返すし、事によっては勝手に詮索した事も謝るつもりで。
「え」
 検出された薬の情報。帝人はしばし表示された文字列を見つめていた。


 エンターキーをたたき、作成した文書を保存する。キャスターを転がして「ふー」と伸びをしたところで、ことり、と小さな足音が背後で止まったのに臨也は気づいた。
「やっと終わったよ帝人くん」
 見上げた少年はどこか堅い顔をしていた。
「臨也さん、これ」
「うん?」
 帝人が差し出した手のひらにのっている、一錠の錠剤。瞬間的に自分の顔が険しくなったのを、彼は自覚した。帝人は申し訳なさそうに眉を下げる。
「ごめんなさい。キッチンに落ちてたのを見つけて、勝手に調べちゃいました」
「いや、気にする事はないよ」
 臨也ともあろう者が、薬を失くしていたのにも気づいていなかったとは。彼自身が自覚している以上に、ここ数日の疲労が溜まっていたらしかった。
「臨也さん、睡眠薬のまないと眠れないんですか?」
 帝人の手の上にあるそれは、どこの医者に罹っても高確率で処方されるような、一般的に使われている睡眠薬だった。
「いつもってわけじゃない。気分が昂ぶった時とか、たまにね」
 帝人の横をすり抜けると、彼も臨也の後を追いかけてくる。テーブルの上には帝人のケータイが放り出されていた。本当に、隠し事がしづらい世の中になったものだ。
 ソファに座って背もたれに背を預けると、途端に絡みついてくるような疲労感がどっと臨也を襲う。その割に頭の芯が冴え冴えと覚醒して、神経の興奮が冷めなくて、まるで眠れそうな気がしなかった。
「最近はちょっと網を張っててね、ターゲットが引っかかるまで結構な長丁場だったよ」
「まさかその間、ずっと眠れていなかったんですか?」
「まあね」
 この一週間で、合計何時間眠れたんだろう。数えると余計に気力を浪費する程度しか寝ていない。数時間前、めでたく長丁場も終止符が打たれた。今夜も睡眠薬の世話になるつもりだった。――帝人を泊めて、『その気になる』までは。
「臨也さんっ!」
 帝人が声を上げると、臨也は薄い笑みを口元に浮かべた。
「まあでも別に、どうせ今夜は眠る気も無いわけだしさ」
「……っ!」
 言わんとしている事を察して、帝人の頬にさっと赤みが差した。
「だ、だめです!また今度にしましょうよ!ちゃんと眠らないと、身体の調子がおかしくなっちゃいますよ」
「やだよ」
作品名:禁断の呪文 作家名:美緒