禁断の呪文
「うわっ!」
ここまできて帝人にやんわりと拒否されるなんて。臨也は子どもみたいに言って、座ったままぐいっと帝人の腕を取って、引く。 細い身体が落ちてきて、臨也の腕にすっぽりと収まった。体勢を入れ替えて、もがく帝人を難なく背もたれに押し付けて、抱き込めた頭に顔をうずめる。
「君、シャンプー使わないでボディソープで頭洗ったの?遠慮しなくてよかったのに。それに面倒だろうけどコンディショナーは使った方がいいよ。ごわごわになっちゃうでしょ」
「僕男なんだから!そんなことどうでもいいんですー!ぼ、僕のことじゃなくて、今は臨也さんが……!」
「だからやだってば。お風呂まで入っておいてここまで来て駄目だとか、なにそれ?生殺し?帝人くんひどいなぁ、信じらんないよ」
徹夜をすると脳内物質が分泌されるようで、それは麻薬に似た成分なのだそうだ。通りで、感覚が研ぎ澄まされて冴えている。気分までハイになっている。
今ものすごく、この子が欲しい。あったまった身体から、石けんの香りなんて健全な匂いを振り撒いて。赤みを増したなめらなか頬や日に焼けていない首筋に、どうしようもなく欲情した。帝人が暴れて嫌がったって、臨也にはもう止めてやるつもりは微塵もなかった。
「っ、分かりましたから、腕、緩めてください」
「ごめんね、息苦しかったよね」
「いえ」
抱く腕から力を抜いてやると、唇を引き結んだ帝人が臨也を見上げていた。そろそろと伸ばされる腕は、遠慮がちに臨也の首筋に絡まった。伸び上がるようにして、今度は帝人から彼に抱きついた。
「みかど、くん?」
いつも仕掛けるのは臨也の方で、帝人から何かをしてくれるのは初めてだった。彼には珍しく戸惑った声を出して、帝人の視線の高さに合わせるように、臨也はそのまま膝を折った。
「僕、放りっぱなしにされたって、帰ったりしませんから。また、泊りに来ます。泊らせて下さい。だから今夜だけは、ちゃんと、眠って下さいよ」
臨也の耳元で帝人は、一言一言噛み締めるようにゆっくりと言った。
「いや、だからね帝人くん」
「臨也さんの顔、好きなんです。余裕綽々、って感じの」
「それは……ありがとう」
「だから僕、隈が浮いてる臨也さんの顔なんて、見たくないです」
帝人なりに懸命なんだと分かって、臨也も困ったように言葉を飲み込んだ。
強く抵抗する相手をねじ伏せるのは簡単だ。けれどこうして、やんわりと封じられるのはやりづらい。しかも、こうしている間にも疲労が思考を曇らせていく。
この子もこんな声が出せるのか、と驚く。洗いざらした柔らかい布で包むように、帝人は囁いた。
ゆるい空気はどうにも臨也の調子を狂わせる。このままじゃヤバい、と焦る臨也の内心を見透かしているのかと思うほど、最高のタイミングだった。
「おやすみなさい、臨也さん」
かくん、と臨也の頭が落ちた。
操り人形の糸が切れたみたいだった。力が抜けて全体で圧し掛かってくる彼の身体を支えようとして、帝人はうめき声を押し殺した。
「お、おも……!」
眠っている人の身体は重い。今の臨也は重くて重くて、しかしだからこそ、演技でも何でもなく、臨也が本当に寝入ってしまったのだと分かる。まぶたはゆるりと閉じられていて、でもそう簡単には開かなさそうだ。うっすらと開いたまま、規則的な細い呼気を吐き出している薄い唇に、帝人はそっと口づけてみる。
臨也は帝人を腕に収めたまま、気持ちよさそうに眠っていた。
「いざや、さん」
――やってしまった。とうとうやってしまった。臨也を眠らせてしまった。魔法みたいに、言葉ひとつを唱えただけで。
ふたりっきりの時の臨也は、いつもとは違って寛いだ様子であるのはなんとなく感じていた。今の彼のコンディションが最悪に悪い事を加味しても、まさかこんなに呆気なく上手くいくなんて。
「……ようこそ異世界へ、なんてね」
帝人は、あくまで自分は『普通』だと自負していた。素手で自販機を投げ飛ばせる怪力も、言葉だけで人を操り裏社会を生きる能力も、持っていない。凡人以上に凡人のつもりだった、はずなのに。
生ける伝説、関わっちゃいけない要注意人物の筆頭を、腕の中で眠らせてしまう自分はもはや普通とは呼べない。
帝人はみずから、呪文を唱えて禁断の扉を開けてしまった。引き返す事はできない、異世界へと続く扉を。
だって、仕方がない。薬を使わなくても臨也が気持ちよく眠ってくれるなら、その手段を自分が持っているなら、帝人は迷いなくそれを使うから。
*
臨也の部屋は冷暖房完備で、布団も毛布も被っていなかったのにさほど寒さを感じなかった。ずっと臨也とくっついていたというのもあるのだろう。人肌のぬくもりは偉大だ。
「……おはよう帝人くん」
「おはようございます」
帝人が目を開けると、臨也は先に起きていた。大変気まずそうな彼と抱き合ったまま。窓から差し込む陽の光がまぶしい。朝までずっとこの体勢だったのだろう。
「俺、昨夜の記憶がほとんど無いんだけど、これは一体どういうこと?」
眉間にしわを寄せて、昨晩の記憶を探って状況を把握しようとしている臨也を見上げて、帝人は微笑んだ。
「臨也さん、可愛かったですよー」
「はぁ?!」
寝顔が。あんなに安心しきった顔で眠り込んでいる折原臨也、なんて稀有にもほどがある。
「押しのけようとしても、臨也さん全然離してくれないし」
「え、ちょ、帝人、くん?」
「肩とか腰とか痛いけど」
眠るには適した体勢ではなかったから、関節がミシミシいってる。けれどあったかくて心地よかったから。だからまた。
「気持ちよかったから、今度はちゃんとベッド行きましょうよ」
「可愛い顔で笑って何言っちゃってんの!?」
状況を予見しつくして生きてきただけに、臨也が想定外の事態には案外弱いと知っていた。色ボケな人間には、たとえ情けない顔だって愛おしく見えてしまうのだから、始末に負えない。
昨夜何やっちゃったんだ俺!とうろたえる臨也を横目に、帝人はふふふと意味深に笑って臨也を更なる混乱に陥れてやった。
End.