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落日

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この感情の名は、確かに知っている。


何度も嘔吐を繰り返した。
租借され胃液にまみれた異物がどんどんと口を伝い空気に触れていく。
内臓が、いうことをきかない。
胸の辺りを掻き毟り、荒く呼吸を乱しながら私は吐瀉物で汚れた足元の冷たさを呪った。
口許を伝う唾液は透明な糸を引き、荒げた呼吸を無理矢理に元に戻そうとすると、今度は咳き込み一層悲壮感が増す。
それでもなくならない。
内臓の微かな、しかし確かな痛み。
それは私の体を血液と同じ様駆け巡り、まるで心臓がもうひとつ存在するかのように、脈を打ち存在を誇示する。

この感情の名は、確かに知っている。


彼を模した癖のある栗色の髪がふと視界に入り、思わず狐面を取り出した。


彼の顔では居られない。

保てなくなる。其れが解る。
恐ろしいことだった。感情は思考に完全に追いつかず痛みを伴い暴走。
わかっていた。
わかっていたのだ

この痛みの名も
この感情の名も
心臓の隣、鎮座し生き物のよう蠢くものが何か、も。


小指が引かれるように、それに気づいたのはいつか。
しかし忍ぶのだと、決めたことだったのに。

こじ開けたのは、彼。



「さびしかったら、なにかに自分の顔を映せばいいさ。ほら、同じだから」




そばにいられたら、いいと思うな、というちいさなちいさな呟きは、空気に伝染し、結局わたしに届いた。
届いて、しまった。
あす、おおよそ二日の日程でひとり使いに出る私への彼のことば。
一瞬、揺らいだこころに愕然とする。



そしてその結果が、これだ。


木製の面の中、呼吸を繰り返す。
いけない、いけない、この感情は禁忌だ。
忍びに成るために、持ってはいけない感情だ。
わかって、いるの、に

どうして、あんなにふわりとわらうのか。
そのあとの、あの翳りのような視線はなんなのか。
やわらかい



口の端を、寝巻きの裾で拭った。
徐々に元に戻る呼吸に伴うよう冷静を取り戻すと、頬が微かに濡れていることに気づいた。
なみ、だ――
「痛みだ」


わざと、喉を震わせ

その声色は、いまだかつて、発したことの無いような


誰の、こえ

思考が渦巻いて、体が軋んだ。故に反射が遅くなった気がしてたまらなくなる。
呼吸の狭間で、空気の動きを捉え、一瞬張った気に気配の元を知り緩めた。
音も無く、気配だけが現れ、深く呼吸をする私の波長にそっと触れるよう
次の瞬間にはかたわらに置かれた手ぬぐいだけがそこにあった。


作品名:落日 作家名:トマリ