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愛早 さくら
愛早 さくら
novelistID. 6143
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仁羽 1

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 朝ぼらけ。
 明けていく空を見る。
 狭く。
 息苦しく。
 だが、他と何も変わらない遊郭の空。
 しゃらり。
 鈴の音が聞こえて。
 静雄は振り返らない。
 振り返らない、けれど。
 振り返らない、ままで。
 ばさりと、長い睫毛を伏せた。

「・・・・・・――また来たのか、お前」

 零れ落ちる声には、退廃が滲んで。
 ぽつりと。
 闇へと届く。
 それは、紅色の―・・・・・・。



 +++++
 仁羽 1
 +++++



「シズちゃん」

 そいつはいつだって人知れず訪れる。
 ひっそりと。
 微かに。
 気配を殺して。
 気付けば後ろから抱き締められていた。
 静雄は眉根をひそめ。

「・・・・・・その名で呼ぶなって言ってんだろ」

 くそばか。

 呟いた。
 吐かれた息に潜む険に、気付いていないはずもないのに笑う。
 男だ。
 くつくつと喉の奥を鳴らして。
 しゃらり、鈴の音が部屋に満ちる。
 これほどまで近くにいるのに、それは何処か酷く遠く。

「だってぇー・・・シズちゃんはシズちゃんじゃないか」

 静雄を捕らえる腕に力がこもって、透徹な声は楽しげに弾んでいる。
 背筋が粟立つような、これは嫌悪。
 男の熱のない息が、無防備な首筋をくすぐり、静雄は一つ、深く、息を吐いた。
 ばさりと。
 長い睫毛を瞬かせて。
 この男には、何を言っても無駄だ。
 必死で自分に言い聞かせる。
 怒りを手のひらに押し殺した。

「・・・・・・臨也」

 呟く、小さく、微かに。
 だけど名は、言霊だ。
 存在を縛る。
 静雄が呼んだのはまさにそれで、男の動きが、ぴたりと止まった。
 ぶわりと、解き放たれた殺気は、男が怒った証し。
 静雄はもう一つ息を吐いて、するりと自分を捕らえたままの腕から逃れた。
 朝の光の中で。
 滲むような黒。
 それは黒い男だった。
 何処までも黒、真っ黒だ。
 黒い髪、白い肌、紅い唇を笑みで歪めて。
 暈けるような黒い着物は、ともすれば夜に溶けてしまいそうだ。
 常と何も変わらない風貌に、ただ、静雄は溜め息を吐くことしか出来ない。
 だってこの男には隠す気がないのだから。

「いざや」

 静かに。
 唇を揺らす。
 それもまた、言霊。
 引かれた紅が舌先に触れて苦い。
 ほっと男は息を吐いた。
 辺りを満たしていた殺気は、一瞬の内に消えている。
 はじめから男には、静雄をどうこうするつもりなどなかったのだろう、先ほど静雄を捕らえていた腕も甘く。
 静雄はしゅるりと衣擦れをさせて、開け放たれたままだった、外へと続く格子を閉じた。
 とんっと、微かな木音をさせて、遮られる外界の気配。
 こもる空気に男が笑った。

「よかったの?逃げ道閉ざしちゃって」

 しゃらり、鈴の音が響いて、引かれる手に逆らわず、静雄は、やはり甘い腕の中に落ちる。
 ぺろり、耳朶を這う生ぬるい感触は男の舌だ。
 紅く、紅く、静雄の唇に引かれた紅よりもよほど紅いそれ。

「っんっ・・・くっ・・・!」

 今更だろう、伝えようとした声は、次いで立てられた犬歯に息を詰めるのに遮られ。
 ぷつり、肌の破れる音が、蝋の揺れる音しかしない空間に響いて。
 しゃらり、鈴の音は、男の足首に嵌められた肢体飾から。
 そこに連なる鈴は、男が動く度に軽やかな音で鳴いた。
 消えかけた燭台の灯がゆらりと歪んで、じりりと軸が焼け焦げる。
 長く伸びた影は黒。
 ただ黒だ。
 静雄の首筋から滲んだ血が、じっとりと落ちて、襦袢の白いかえしに赤茶けたシミをつけた。
 それに、なんとはなし視線をやりながら、静雄は柔い手つきで黒い髪を梳いた。
 さらりと。
 指にこぼれる、他の何と混ざるはずもない黒。
 蝋の灯が揺れて、影もまたぼやける。

「いざや・・・・・・」

 呼ぶ名は言霊だ。
 何処までも。
 何処までいっても。
 静雄は自分の力を知っている。
 自分が持って生まれた能力を理解していて、その名を呼んだ。
 ちりと、喉の焼ける感触がして、一つ、眉をしかめ、だが構わずに黒い頭を抱え込む。
 さらり、さらり、髪が舞って、そのまま、引き寄せるようにして背から倒れこんだ。
 褥へ。
 紅い敷布に寄ったしわは、まるで波のように衣擦れを響かせて、細く、あえかな静雄の息も、飲み込んで、包み込んでいく。
 しゃらり、鈴の音が鳴る。
 それは。
 それは。
 朝ぼらけ。
 まだ明けやらぬ空の中。





作品名:仁羽 1 作家名:愛早 さくら