仁羽 1
朝やけを過ぎて。
すっかり明けきった部屋の中、褥にうずまるのは静雄、ただ一人だ。
ほんの数刻前まであった黒い男の影はいない。
部屋の外では幼い童女たちの、きゃらきゃらしい声が響いていた。
遊郭の、遅い朝が明けている。
陽はちょうど中天。
直に昼餉が運ばれてくるような時刻。
ゆるりと持ち上げた瞼の先に見える天井は、何の影もない見慣れたそれ。
静雄はふと、息を一つ吐いた。
ゆるゆると紅い唇の隙間から漏れ出た空気は、白くぼやけるようにして大気と溶ける。
鉄色をした燭台の中では、燃え尽きた蝋の欠片が僅か底にこびりついていた。
閉じたはずの格子は開け放たれ、陽の光が眩しいほど静雄の肌をはじき。
微か起こした躰、身動ぐのにどろりと胎から流れ出た体液が腿を伝い、その不快さと同じだけ・・・否、それ以上に気怠い手足が、昨夜の、また朝の行為が、決して幻ではなかったことを、否が応でも静雄に知らしめて。
口汚く舌打ちする。
それが行儀の悪い動作であるのはわかっていても。
耐えたりなんてしない。
「・・・・・・臨也」
呟いた名に拘束力なんてなく。
どんな力も、こもっている筈もない。
嗚呼、昼の光の中でこぼれるその言葉は、どれほど影のないことだろう。
近づいてくる足音がした。
ぎしりと床板を踏むのと、しゃらり、鳴る鈴の音は、今朝も、これまでも、飽きるほど聞いてきたそれ、だが、まとわりつくような重さのない軽やかな音だ。
きゃらきゃらしい童女の声と・・・さざめくような女の応えるそれ。
陽の光の下の此処は、暗いものなど何もなく。
す、と、静かに引かれた襖に、ゆるりと視線をそちらに向けた。
粗雑な、だが何処かしら品を残した仕草で、部屋に足を踏み入れたのは黒い男。
しゃらりと鈴の音を響かせて、真っ黒な着物の裾をさばき、艶々とした漆黒の髪を揺らす。
酷く整ったその顔は、今朝方飽きるほどに見た、あの存在とそっくり同じそれで。
「やっと起きた?シズちゃん」
呼ばれたような気がして、来てみたんだけど。
口の端だけで笑む。
透徹なその声も、唇からこぼれ出る口調も、何も変わることのない男は、この妓楼の亭主だ。
しゃらり、動く度涼やかな音をさせて、つと、伸ばした手で静雄の頬に触れた。
「っち。・・・呼んでねぇよ」
逸らせる視線で、冷たい手のひらから逃れ、不快さに眉根をしかめる。
「あらら。ご機嫌斜めだねぇ~・・・また狐でも出たの?それとも昨夜の客がしつこすぎたとか。なにせシズちゃん、うちで一番売れてるし」
笑む眼差しは、凍えるようなのに、口調だけは柔く。
くつりと、喉の奥で笑う。
悪趣味にもほどがあると、静雄は内心で吐き捨てた。
辛うじて腕に絡み付いていた紅い襦袢を引き上げて、襟を整える。
躰の奥底から響くような鈍痛に唇を噛んで、すっくと立ち上がった。
少しでも動く度、逐一足を伝う胎から流れ出る体液は、不快さしかもたらさない。
「狐を喰らいに来たはずの俺に、遊女の真似事までさせるお前の悪趣味に、これ以上付き合ってられるか」
湯殿使うぞ。
言い捨てて廊下に出た。
背中で男が多分醜穢に笑っているのだろうことをわかっていながら。
男と。
だけど、交わす言葉などないと。
鈴の音はもう聞こえなかった。
狭い空の中には、今、陽の光が満ちている。
その下で。
ひらりと舞った羽は、幻以外の何物でもなく。
だが確かに、静雄の軌跡。
其処を満たす気配は、何処までも退廃で。
鳴らない鈴の音に、静雄は絡め捕られたまま。
明るい陽の光は、もう決して。
静雄を、照らすことはないのだった。
秋。
朝ぼらけの先にて。
To Be Continued...