貴方がたにはわかるまい
初めて会った時にはまさに「駄目」時の絶好調で、奇天烈なジャージを纏ったカレーくさい男は自分にまでそんな格好を強要した。妹子も噂には聞いていたので、これが偉業を行った高貴なる人の振る舞いかと思えば暗澹たる気分になった。
それは周囲も同じようで、どうやらかつてない程長いらしい「駄目」な期間に、役人たちもうんざりしていたようだ。あるいは恐れていた。このまま戻らなかったらどうするかと。
隋に共へ行くことは荒治療かつ朝廷の緊張を緩めるためだったようだ。
戻ってしばらくは期待通りに、外ツ国に影響されて集中して仕事をする太子に、役人たちも安堵の息を漏らしているのがわかった。
妹子にもわかるのだ。対象である太子が気付かぬはずはない。
偉業を成す狭間の「彼」は、常に厄介者で孤独だった。
だがその弱さをこれみよがしに曝け出されて、妹子にどうしろというのだ。
たかが五位の役人ひとりにそれを押しつけて見ぬふりをする上司たちと、なによりそんな思惑に単純にはまって自分を信じきっている彼を見ていると、苛々した。
妹子の忍耐力は限界に達していたのだ。
あんた、そんなに簡単に僕を信じてどうするんです。
「――――僕は、忠告しましたから。」
醒めた口調で樹上へ告げる。
「これ以上阿呆なことやり続けるなら僕は帰って仕事しますからね。余計な労力使わせないでくださいよ。アンタがめり込もうがどうなろうがどうでもいいですけどちゃんと自力で帰ってきてくださいね」
そう続けると、もはや木の上に視線も送らず踵を返す。なんだよそれ、おい見ておけよとぎゃんぎゃん喚く声を無視して歩みを進める。今度ばかりは自分から降りてくるまで放っておいてやる、と思った妹子の耳に、ずいぶん遠くなった太子の声が届いた。
「馬鹿ばか!言うこと聞けよ、戻って来い!―――戻ってこないと飛ぶからな!」
飛ぶ、という言葉にぎょっとして思わず振り返れば、片手と片足を枝から離し、今にも転げ落ちそうなほど不安定な体勢で、木の上から身を乗り出す姿が見えた。
「ばっ……」
絶句して凝視しているうちに、
「見えているんだろう!おい!―――飛ぶからな、いいか、私はたしかにセクシーエンジェル太子だが羽はないんだからな!出そうったって出ないんだ、お前がそう言ったんだぞこの野郎!落ちたら怪我するぞ、うちどころが悪かったら骨はぼきぼきだし首とか直撃したら、もう……、」
そこで一瞬言いよどむのが妙にリアルだ。
「ええい、とにかく飛ぶぞ!もう飛ぶ、絶対飛ぶ!
10秒だ!いーち、に、」
ホント馬鹿ですかアンタおい何血迷ってんだ――――奔流のように頭の中を罵倒が駆け巡るが、はっきり言って10秒では迷う時間すらなかった。
以前に風呂に入れた時と同じ、間抜けな音程で数字が数えられている。
だからなんで声が震えてるんだ。
脅しでやめておけばいいものを!
顔を強張らせすこし青ざめて、泣きそうになりながら此方を睨む男が覚悟を決めるように目を閉じた。
「ごー、ろおく、」
いつ地面を蹴ったのかわからない。
妙なところでいつも真剣な男だった。
今も、少しのよどみも引き延ばしもせず、律儀にきっかり一秒で数えている。舌打ちしたい気分で足を速めた。
わかっているのだ。
たぶんあの馬鹿は、10と言った瞬間に飛ぶ。
目を閉じたまま。
信じているのではなく、願っているだけの頼りなさで。
なんでアンタみたいのが存在するんだ。
落ちてきた青を、手を伸ばし、掴む。支えきれない重みを巻き込むように身体を滑り込ませ、ふたりして地面を転がった。
数秒後。すぐさま顔をあげた妹子は、衝撃にくらくらとくる眩暈と痛む全身を無視して、自分の上に乗り上げた太子を見上げた。目を見開き、茫然とした顔でこちらを見下ろす姿に、怪我はないようだ。わかった瞬間に怒りが沸騰した。
「……っどこまで馬鹿なんですかアンタは!!」
怒鳴りつければ青褪めたままの顔が反射的に強張った。だが、次の瞬間その顔がかっと火照ったかと思えば、両手で乱暴に襟首を掴まれる。
「馬鹿なのはお前だ!!」
絶叫され、思わず呆けた顔で見上げてしまった。叫んだ内容よりも、言葉と同時に目の前でぼろりと零れたあまりに大きな雫に驚いた。普段なら瞬間的に言い返すところを、咄嗟に返せなかったのはたぶんそのせいだ。
「わ、私なんかどうでもいいとか言っちゃってさ、」
掴まれた襟首にきゅうと力が入る。
子供のようにぐしぐしと洟を啜りながら、ぼたぼたと盛大に泣きながら、縋るようにして己を締め上げる姿を見る。
「だったらこんな、戻ってくるなよっ。嘘つきめ!」
あの状況で戻らない輩がいたら教えてほしい。
妹子は即座にそう思ったが、口にしなかった。代わりに、
「戻らなかったらアンタ死んでるじゃないですか。そうしたら僕は傍にいたのに助けられなかった不届き者で即処罰でしょうね」
突き放す口調で貫き通せば、瞬きもしない眼からまた一粒、涙が零れる。襟首を掴む手が小刻みに震えていた。
「―――だから、戻ってきたのか?」
言ってからすぐに、へらりと笑う。涙と洟でぐしゃぐしゃの顔で、ひくりと口の端を痙攣させながら笑う。
「ちがうだろ、ちがうよな。な、妹子。妹子……」
本当に、どうしてこんなことになったのだろう。
妹子は幾度も繰り返した問いをもう一度胸のうちで呟いた。
何がいけなかったのか。
あの日に、波に呑まれて溺れそうになりながら泣いていた男に手を差し伸べたことがすべてのはじまりなのだとしたら、こんなひどい話はない。
しり込みする手に縋る男は、この国を導き、整え、豊穣を約束する至上の存在のはずなのだ。
そのことがあまりに哀れで、堪らなくおかしい。
「……僕はあんたがいないと平和だし静かだし仕事ははかどるし余計ないさかいにも巻き込まれないし言うことなしなんですけど」
「ひどっ…」
「―――あんまりアンタが馬鹿だから、そばにいてやってもいいです」
太子はもう一度、ぽろりと涙をこぼした。
その顔は驚きに満ちていて、生まれてこのかたそんな言葉を言われたことはないといわんばかりで。
だれかこのひとに愛を教えてあげればいいのに。
妹子は哀れな顔に喜びをのせて泣く男に手を伸ばしながら、思った。
作品名:貴方がたにはわかるまい 作家名:karo