果て
嗚咽を押し殺した様な所々掠れた声。
若しや、自分の言葉の意味を取り違えているのでは?
ゆっくりと百介の肩に手をかけて顔を上げさせる。酒で上気した頬、いつも以上に潤んだ瞳、一瞬又市の動きが止まった。矢張り勘違いしているのだろうか、と口を開く前に、百介の顔が歪む。
「私は、又市達が…っ、又市さんが…」
ひゅ、と喉が鳴る。其れ以上言葉にならないらしい百介を見下ろし、又市は小さく息を吐いた。本当に、此の人は。
「…先生、百介さん。奴ァ別に先生が邪魔たァ言ってやせ ん。ただ、これ以上奴達と一緒に居たら危険なんですよ。それに、先刻も言いやしたが先生は昼の世界の人間でさァ、だから…」
「だから、なんですか…っ私は、慥かに又市さん達と、同じ世界には、いけません。でも…私は、昼の世界にも、いられません。半端者なん、です。だから…黄昏時に、いますから、お願いです…一緒に…」
まだ酒が残っているのだろう、普段ならば百介が此処まで積極的になる事は無い。縋り付いてくる様に白帷子を握る手を緩やかな動作で解しつつ、何時に無く優しげな目を向けて口を開いた。
「…奴ァ先生の事ォ心配してんですぜ?」
「大丈夫、死にません。私は、又市さんと一緒に居ないと死んでしまうんです。又市さんと一緒だから…生きていられるんです…」
「……先生を守れるほどの力ァ御座いやせん。何時か本気で危ない目に合わせちまうかもしれねェ。それこそ、死んじまう様な事に。それが奴ァ嫌なんでさァ」
真摯な表情。弥勒三千の小股潜りが口にしているのは、本音だった。
けれど、其の心配も百介にとっては。
未だ瞳を揺らしたままの百介を見つめつつ、又市は幾度目かの溜息をつく。初めて仕掛けに巻き込んだ時、雨の中足を滑らせて死のうが如何しようが構わない程軽く考えていた目の前の人間の命が、此れ程までに大事になるものかと頭の隅で考えていた。
裏の世界に生きる人間にとって、大切に思う人間が出来る事は致命的だ。大事だという事は、其れは弱み。急所にしか為り得ない。早めに別れた方が自分と百介、両方の為になると分かってはいるものの、芝衛門狸の時も狐者異の時も結局巻き込んで、手伝わせて、離れる所か益々近付いてしまっていた。戻れない。ふいにそんな言葉が浮かんだ。
「………先生、酒が残ってやす。全部飲み切っちまいやし ょう。…次の仕掛けは四国ですぜ」
「……っ、は、い」
今度の仕掛けの話をするつもりはなかった。今回の仕掛けには、巻き込むつもりはなかった。
酒を百介の猪口に注ぎながら次の場所を告げる。薄っすらと浮かんだ涙を袖で拭いながら笑顔を浮かべて頷く百介を見つめ、小さく又市は呟いた。敵わない。惚れた弱みというものだろうか。次こそ、命を落としかねないというのに。
いつの間にか徳利の中身は底をつき、酔いに酔った百介は器用に蔵書を避けて横になってしまった。
* * *
「又市さん…っ!又市さんなんでしょう!」
「…八咫鴉に人の知り合いはおりやせん、お人違いでやし ょう。今日の事はお忘れ下せェ」
余りに唐突過ぎた別れ。八咫鴉と名乗る黒衣の男。二人の天狗の死。鈴の音と、御行の言葉。
――りん。
御行為奉。
それから数十余年。
百介が一白翁と名乗り、
小夜と出会い、
百物語の果てに。