夜も忘れて
「今日はひとりで寝てやるんだから!!!」
枕を抱えた弟が仁王立ちになって宣言するのを、アロイスは辛うじて笑いを押さえながら見守った。やはり不安は拭い切れないないらしく、言い切ってから今更のように涙を浮かべて見上げてくるので、髪がくしゃくしゃになるまで乱暴に撫でてやった。
「うわっ、おにい?!」
「大丈夫だよ、ルカなら」
「う、ん……」
「ほら、もうベッドに入る時間だ。ハンナ」
名前を呼ぶだけでもうアロイスの意を察した有能なメイドがすぐさまルカの傍らに並んだ。そのままふたりで部屋を出る間際、ルカが藍色のスカートの裾を引き、屈んだハンナの耳元に口を寄せた。しばらくして、ハンナが小さく頭を下げてから立ち上がる。そのころには弟の小さな姿はもうすっかりスカートの陰に隠れて見えなくなったけれども、やがて甲高い笑い声が廊下側から聞こえてきて、ルカがしたお願いは叶えられたのだろうと分かった。手でも繋いでもらったのかもしれない。
すっかり解放されたアロイスは今度こそ笑いはじめた。最初はそれでもベッドに顔を押しつけて笑い声が響かないように気をつけていたけれど、そのうち堪え切れなくなり結局は仰向けになって心行くまで笑った。
それから、不意に顔をしかめた。
洗濯糊の利いたシーツ、ふかふかのマットレス、いくつも積み重ねられたピロー、嘘みたいに白い海の中、いつからルカと一緒に寝るようになったんだっけ、と数えようとして、止めた。気短というよりも気紛れなアロイスも、弟のことだけはいつまでも待ったから、寝かせつけるのは兄の役目だった。その弟が独り寝をすると言い出したのだから、成長を喜んでやるべきなのだろうけど。
羽根布団の中に潜り込む気も起きなくて、身体だけは丸めて瞼を降ろす。じっと眠りの到来を待っていると、やがて部屋のロウソクが消え(暗い中では眠れないとルカが言うので、アロイスが手ずから消してやるのが習慣になっていたのだった)、部屋の中に聞こえるのは自分の呼吸音のみ、なのに意識はますます冴えわたるばかり。ルカはひとりで眠れたんだろうか。結局はハンナの手に余って、泣きながら部屋に戻ってくるのではないか。いやそれとも、アロイスの聞き慣れた、殆ど気配も同然の足音が廊下を通りやしないか――。
アロイスはしばらくの間待っていた。どの可能性を待っていたのかも分からずに、それでも耳をすまして、待って、待ち続けて、最後に瞼を持ち上げて、大きくため息を吐く。
前述した通り、アロイスは決して気の長い質ではない。呼べばメイドも執事も来てくれるだろうと分かってはいるものの、天の邪鬼な部分も手伝って、それはそれで悔しいと思う。いや、執事相手に限って言えば(つまり可能性はもうすっかり絞られてしまっていた)アロイスは素直以外のなにものでもなかったのだが、今は下手をすれば弟以下の幼さに捉えられかねない、ひとりで寝られないことを悟られたくない意地のほうが勝っていた。
(まあ、でも、眠たいのに眠れないわけじゃなくて、目はクソ冴えてるんだし、ね)
稚拙な言い訳だが、今はこれで充分だった。満足した少年は身体のばねだけで起き上がり、闇に目が慣れるのも待たずに部屋の外に飛び出す。行き先は決まっていなくとも、廊下の壁に手を添えればあとは思うがままに進めばいい。いくつもの廊下を裸足でぶらついて、すきなときにすきな場所で曲がる。毛足の長い絨毯はいとも簡単に音を吸い込むけれど、気分を盛り上げるために、いちおうは見咎められないためにも息を潜めておく。
自分とルカの部屋がある階を一周し終えたアロイスが、最後にたどりついたのは玄関前のホールへと続く階段だった。ぴかぴかに磨きたてられた手すりは勿論滑り降りるためにある。助走をつけて跳びのって、寝間着の裾がふわふわ舞うのも気にしないで永遠に続きそうな滑走にアロイスは自然と歓声を上げ、
「あれ、うわっ……いったあ……」
次の瞬間には地面に叩き付けられていた。実際には悲鳴は条件反射で喉をついて出たから、したたかに痛む腰を抑えながらも何が起きたのかすぐには分からずにきょろきょろとあたりを見渡した。
確かにあったといえるのは後ずさった背中に当たるひんやりとした手すりの最後だけで、先程まではちっとも感じていなかった闇がいつの間にか周りに忍び込んでいる。自分までが溶けていってしまいそうな、闇。掻き消すために翳した両手が白く浮かび上がった。
闇だ、とアロイスは思った。人事のように。
明かりが欲しいとすこし考えただけで、闇が闇だと認められて、濃さを増してしまうかもしれないと思った。
だから怖くはなかった。けれどひとりでないと身体に思わせることはできなかった。ぺったり投げ出した足、まだ冷たいままの背中、荒い息のせいであからさまに上下する肩。どうしようもなくひとりで、闇はそんなアロイスを誘い込もうと待ち構えていた。身を委ねれば、意識など必要がないのだからと囁く声すら聞こえそうだった。逃げたいとも思われなかった。明かりがない限り闇が消えることはなく、逃げ込める場所なんてどこにもないことをアロイスは知っている。
それとも呼ぶべきなのか。
唇を開いて乾いた息を吐き出し、はじめての夜が脳裏を掠めたとき、不意に目の前の闇にもっと暗い色がが上塗りされた。ゆっくりと見上げたアロイスの身体にやわらかな毛布がかけられ、包まれたままで宙に浮かぶ。
口にする前に、小さなため息を確かに聞いた。
「……クロード、」
「なにをなさっていたのですか、旦那様」
「ううん」
なんでもない。
そのまま目を閉じたあとで頭を執事の胸元に押しつける。
「クロード」
「はい」
もう一度呼ぶと、膝下と背中に差し入れた手の位置がすこしだけ変わった。立ち止まっていても不安定な姿勢で、体重をすっかり預けているとはいえ支えてられているのはその二箇所だけのはずなのに、この執事にかかると歩いていてすら毫も揺れない。やっぱりクロードはすごいや。妙なところで感心しながら、アロイスは両手でしがみついた。
「クロード?」
「先に風呂場で足を洗いましょう。徘徊なさるのもけっこうですが、裸足では身体を冷やしてしまう」
「ああ、そうか。……すっかり忘れてたよ」
やがて辿り着いたバスルームには大きな桶の中にたっぷりの湯と、大判のタオルが浴槽の近くに用意されていた。こんな用意周到さに感じるべき疑問まで忘れてしまったらしいアロイスは浴槽の縁に下ろされ、毛布をマントのようにして肩にかけたまま足を湯につけた。かなり温度は高かったが、ぴりぴりしたすこしくすぐったいような感触がまた心地よくて気の抜けた長い息を漏らす。
枕を抱えた弟が仁王立ちになって宣言するのを、アロイスは辛うじて笑いを押さえながら見守った。やはり不安は拭い切れないないらしく、言い切ってから今更のように涙を浮かべて見上げてくるので、髪がくしゃくしゃになるまで乱暴に撫でてやった。
「うわっ、おにい?!」
「大丈夫だよ、ルカなら」
「う、ん……」
「ほら、もうベッドに入る時間だ。ハンナ」
名前を呼ぶだけでもうアロイスの意を察した有能なメイドがすぐさまルカの傍らに並んだ。そのままふたりで部屋を出る間際、ルカが藍色のスカートの裾を引き、屈んだハンナの耳元に口を寄せた。しばらくして、ハンナが小さく頭を下げてから立ち上がる。そのころには弟の小さな姿はもうすっかりスカートの陰に隠れて見えなくなったけれども、やがて甲高い笑い声が廊下側から聞こえてきて、ルカがしたお願いは叶えられたのだろうと分かった。手でも繋いでもらったのかもしれない。
すっかり解放されたアロイスは今度こそ笑いはじめた。最初はそれでもベッドに顔を押しつけて笑い声が響かないように気をつけていたけれど、そのうち堪え切れなくなり結局は仰向けになって心行くまで笑った。
それから、不意に顔をしかめた。
洗濯糊の利いたシーツ、ふかふかのマットレス、いくつも積み重ねられたピロー、嘘みたいに白い海の中、いつからルカと一緒に寝るようになったんだっけ、と数えようとして、止めた。気短というよりも気紛れなアロイスも、弟のことだけはいつまでも待ったから、寝かせつけるのは兄の役目だった。その弟が独り寝をすると言い出したのだから、成長を喜んでやるべきなのだろうけど。
羽根布団の中に潜り込む気も起きなくて、身体だけは丸めて瞼を降ろす。じっと眠りの到来を待っていると、やがて部屋のロウソクが消え(暗い中では眠れないとルカが言うので、アロイスが手ずから消してやるのが習慣になっていたのだった)、部屋の中に聞こえるのは自分の呼吸音のみ、なのに意識はますます冴えわたるばかり。ルカはひとりで眠れたんだろうか。結局はハンナの手に余って、泣きながら部屋に戻ってくるのではないか。いやそれとも、アロイスの聞き慣れた、殆ど気配も同然の足音が廊下を通りやしないか――。
アロイスはしばらくの間待っていた。どの可能性を待っていたのかも分からずに、それでも耳をすまして、待って、待ち続けて、最後に瞼を持ち上げて、大きくため息を吐く。
前述した通り、アロイスは決して気の長い質ではない。呼べばメイドも執事も来てくれるだろうと分かってはいるものの、天の邪鬼な部分も手伝って、それはそれで悔しいと思う。いや、執事相手に限って言えば(つまり可能性はもうすっかり絞られてしまっていた)アロイスは素直以外のなにものでもなかったのだが、今は下手をすれば弟以下の幼さに捉えられかねない、ひとりで寝られないことを悟られたくない意地のほうが勝っていた。
(まあ、でも、眠たいのに眠れないわけじゃなくて、目はクソ冴えてるんだし、ね)
稚拙な言い訳だが、今はこれで充分だった。満足した少年は身体のばねだけで起き上がり、闇に目が慣れるのも待たずに部屋の外に飛び出す。行き先は決まっていなくとも、廊下の壁に手を添えればあとは思うがままに進めばいい。いくつもの廊下を裸足でぶらついて、すきなときにすきな場所で曲がる。毛足の長い絨毯はいとも簡単に音を吸い込むけれど、気分を盛り上げるために、いちおうは見咎められないためにも息を潜めておく。
自分とルカの部屋がある階を一周し終えたアロイスが、最後にたどりついたのは玄関前のホールへと続く階段だった。ぴかぴかに磨きたてられた手すりは勿論滑り降りるためにある。助走をつけて跳びのって、寝間着の裾がふわふわ舞うのも気にしないで永遠に続きそうな滑走にアロイスは自然と歓声を上げ、
「あれ、うわっ……いったあ……」
次の瞬間には地面に叩き付けられていた。実際には悲鳴は条件反射で喉をついて出たから、したたかに痛む腰を抑えながらも何が起きたのかすぐには分からずにきょろきょろとあたりを見渡した。
確かにあったといえるのは後ずさった背中に当たるひんやりとした手すりの最後だけで、先程まではちっとも感じていなかった闇がいつの間にか周りに忍び込んでいる。自分までが溶けていってしまいそうな、闇。掻き消すために翳した両手が白く浮かび上がった。
闇だ、とアロイスは思った。人事のように。
明かりが欲しいとすこし考えただけで、闇が闇だと認められて、濃さを増してしまうかもしれないと思った。
だから怖くはなかった。けれどひとりでないと身体に思わせることはできなかった。ぺったり投げ出した足、まだ冷たいままの背中、荒い息のせいであからさまに上下する肩。どうしようもなくひとりで、闇はそんなアロイスを誘い込もうと待ち構えていた。身を委ねれば、意識など必要がないのだからと囁く声すら聞こえそうだった。逃げたいとも思われなかった。明かりがない限り闇が消えることはなく、逃げ込める場所なんてどこにもないことをアロイスは知っている。
それとも呼ぶべきなのか。
唇を開いて乾いた息を吐き出し、はじめての夜が脳裏を掠めたとき、不意に目の前の闇にもっと暗い色がが上塗りされた。ゆっくりと見上げたアロイスの身体にやわらかな毛布がかけられ、包まれたままで宙に浮かぶ。
口にする前に、小さなため息を確かに聞いた。
「……クロード、」
「なにをなさっていたのですか、旦那様」
「ううん」
なんでもない。
そのまま目を閉じたあとで頭を執事の胸元に押しつける。
「クロード」
「はい」
もう一度呼ぶと、膝下と背中に差し入れた手の位置がすこしだけ変わった。立ち止まっていても不安定な姿勢で、体重をすっかり預けているとはいえ支えてられているのはその二箇所だけのはずなのに、この執事にかかると歩いていてすら毫も揺れない。やっぱりクロードはすごいや。妙なところで感心しながら、アロイスは両手でしがみついた。
「クロード?」
「先に風呂場で足を洗いましょう。徘徊なさるのもけっこうですが、裸足では身体を冷やしてしまう」
「ああ、そうか。……すっかり忘れてたよ」
やがて辿り着いたバスルームには大きな桶の中にたっぷりの湯と、大判のタオルが浴槽の近くに用意されていた。こんな用意周到さに感じるべき疑問まで忘れてしまったらしいアロイスは浴槽の縁に下ろされ、毛布をマントのようにして肩にかけたまま足を湯につけた。かなり温度は高かったが、ぴりぴりしたすこしくすぐったいような感触がまた心地よくて気の抜けた長い息を漏らす。