徒花の意義
実を結ばないそれは、はたして本当に無意味だろうか?
徒花の意義
黄泉比良坂。
冥道の入り口、死者の魂と冥府の兵達のみが跋扈する死地たるそこに、一人の生者が佇んでいた。
暗い地の底でも陽光を思わせる輝きを放つ金色の鎧を身に纏った一人の男。
黄金聖闘士、蟹座のマニゴルド。
彼は至極つまらなそうに、死者達の行列を眺めていた。
この長く続く死者の列に加わる人間が、最近急激に増えているのを彼は承知していた。
戦いが始まったのだ。
神話の時代から続いている、女神と冥王との戦いが。
それは即ち、聖戦。
黄金聖闘士全員が聖域に緊急招集され、
そして冥闘士による聖域侵攻の口火が切られた。
そしてつい先刻起こったロドリオ村での戦闘。
それを、彼は燃え上がる小宇宙を感じながら自宮から見下ろしていた。
黄金と漆黒の小宇宙が激しくぶつかり合って弾け、黄金の小宇宙が消えた時。
殆ど衝動的にマニゴルドはこの黄泉路へと跳んでいた。
予測はしていたのだ。
この聖戦と言う名の冥王との戦争には、拭い去れない死の存在が濃厚に満ちている。
聖域の中で誰よりも死に近い男は、そんなこと位よく理解していた。
故に、たった一人、最前線へと赴いた男がもう生きては戻って来ないかもしれない事位、
予測は、していたのだ。
マニゴルドは手頃な岩に片膝を抱えて座り、肘を膝に着けて腕で顎を支えた。
どう見ても覇気のない様子で色素の薄い目をじっと列に向ける。
男はただ、待っていた。
たった一人の死者がこの地を踏むのを。
……それに、さほどの時は掛からなかった。
きた。
マニゴルドは顔を上げ、視線を走らせる。
黄金色の小宇宙。
燃え上がってはいなくても、静かに湛えられたそれは闇の中、眩かった。
視線の先に、ぼうと浮かぶ白い姿。
それに誘われるように立ち上がり、側まで歩み寄る。
流れる清流の様に艶やかな碧の髪。
女神もかくやと思われる白皙の美貌。
魂故に黄金の鎧を身に纏っていよう筈もないが、その輝きを見間違える事は生涯無いだろう、とマニゴルドは思った。
「アルバフィカ!」
マニゴルドの呼び掛けに、麗人が振り返る。
流麗な蒼い瞳には、未だに明瞭な意思の光があった。
マニゴルドがその事実に安堵する間も無く、アルバフィカの目がすっと細められた。
刹那走る嫌な予感に、蟹座は怯む。
「……何をしているマニゴルド。君は指示があるまで自宮で待機する命が下っていた筈だろう」
明らかに叱責の響きを含む、静かで冷涼で、それでも鋭く尖った声。
聞き馴染んだ茨の声を耳にして、マニゴルドはお前自分が死んだって時にまでそれはないだろう、と苦く呟く。
馴染んだ、馴染みすぎた声が余りに普段通りで胸が軋んだ。
こんな時ぐらい、少しは愁傷になればいい物を。
かわいげが無いにも程がある、と男は苦笑する。
それを訝しげに見やってから、アルバフィカは静かな眼差しを向けたまま口を開く。
「見送りのつもりか?ならば、不要だ。今は死者より生者を優先しろ」
暖かさや柔らかさ、一欠片の甘みすら無い言葉と声は彼の常だ。
自らの体質を重々承知の上、人を寄せ付けない事を第一に考えていた美貌の青年は、故に冷たいと思われる事が多く、本人もそれを良しとしていた。
茨で鎧い、誰をも寄せ付けず、独り咲く孤高の薔薇。
それは、マニゴルドのみならず聖域の殆どの住人が抱く彼の印象だった。
だが、この美しい魚座が生涯、真実孤高であり続けたのと同じ位、どうしようもない程に孤独でもあった事を、蟹座を頂く男は知っている。
「は、言うねェ。黄金からの脱落者に手向け位させろや。お前が一番最初なんだしな」
一番後の宮を護るべき奴が真っ先に逝くなんてお笑いだな、と偽悪的にマニゴルドは笑って見せる。
その揶揄にもアルバフィカは眉一つ動かさなかった。
聖域、教皇の間に続く最後の階段に咲く魔皇薔薇は、彼が死しても最後の門衛としての役割を果たしている。
そして冥王に定石など通用しない事を、二人の黄金聖闘士は良く理解していた。
それ以上に彼の言葉を額面通りに受け取るのは意味のない事だ。
マニゴルドが意図的に不快と捉われ易い言葉を紡ぐ悪癖を持つのを、アルバフィカは知っている。
そう、この言葉は皮肉ですらない。
ただの言い訳に過ぎない事を悟れる程度には、二人は同じ時間を過ごしていた。
殆どが、マニゴルドの強引な来訪を今のようにアルバフィカが切り捨てると言う物ではあったけれど。
「もはや、どの様な手向けも私には必要ない」
目を微かに伏せ、アルバフィカは淡々と告げた。
死者は黙して去るのみ。
そして、生者には果たすべき役割がある。
目の前の男は世界で12しかない金色を担う、一人なのだから。
「……早く帰るがいい。そして聖域を、民を、……女神を護れ」
それが人類全てを護という事だ。
その言葉に、マニゴルドは思わず次ぐべき声を無くした。
言われるであろう事は解っていたのに、それでもなお。
彼の言に間違いも迷いもない。
彼はやるべき事を成したのだ。
だからこそ、彼に悔いがある筈がない。
悔いがあるはずも無い事を、マニゴルドは喜べばいいのか憤ればいいのか解らなかった。
皆が彼に思いを向けたとしてもただ拒み、一人で咲き散っていくのが、無性に悔しかった。
彼が人を拒むのが頑なさからではなく、人を傷付けたくない優しさから来ているのなら、尚更。
黄金聖闘士であると言うことは、人の中での最高峰に位置すると言うこと。
それは、何処か人から離れてしまうという事なのだろうか。
それすら業であるのだと、納得しなければいけないのだろうか。
女神を地上を人々を護る。
それは聖闘士の総意。
受け継がれる尊い意思であり、それを貶すつもりは無い。
無い、が……。
「……嫌んなるよな」
マニゴルドはぽつりと呟いた。
アルバフィカは、その落ちた声の余りの深さに視線を上げた。
男は、苦く笑っていた。
そんな風に笑う彼を見たのはこれが最初。
そして、最後である事をアルバフィカは知っている。
「覚悟の上だろう、聖闘士ならば」
あぁそうだ、覚悟の上だ。
アルバフィカの言葉は、本当に今改めて言われる事でもない。
死ぬのも死を見るのも死を生み出すのも厭わない。
聖域に来た時から、そんな覚悟なんて出来ていたのだ。
ただ、無性に寂しかった。
もう、生きた彼と会う事は無い。
こうやって会話をする事も、冷たくあしらわれる事も恐らく、もう二度と無い。
やりきれず向けた視線の先には玲瓏たる美貌。
一つの癖で伸ばした指は、しかしいつもの様に避けられる事は無かった。
触れる事を想定していなかった指先が白い頬に触れる。
今まで髪にすら触れる事を許さなかった彼は、ただじっと此方を見つめていた。
マニゴルドは一瞬唖然として、次いで苦笑する。
彼が人を拒み続けていた因がある毒に満ちた肉の器は、此処には無いのだ。
そのまま肌に掌を触れさせる。
滑らかな白磁の肌に温度はない。
当然だ。
相手は魂、既に命亡き者なのだ。
彼の熱は失われ、もう二度と戻らない。
そして魂も、この先に広がる死者の国に埋葬されてしまう。
それこそが死。