雪融けの刻
雪融けの刻/花帰葬(白親子)
あの人が僕に優しかったことなんて一度も無かった。
だから、僕は。
《雪融けの刻》
かつかつかつ。
靴音が広い廊下に響き渡る。
その音は酷く虚ろに響いて、それを僕は煩わしく思う。
とにかく早くここから、この城から出てしまいたくて更に足を急がせた。
かつっ。かつ、かっかっかっかっ。
もう、殆ど走ってるのと同じ速度の早足だ。
実際、すでに小走りに近いんじゃないかとは思う。
ただ城内は非常時以外は走ってはいけない事になっている訳だから、走るわけにはいかなかったりする。
……一応、規律ではそうなっている。
本当は今すぐ走りだしてしまいたい気分ではあるのだけど、そんな規律違反なんてあの人に知られたらきっと……また、怒られるから。
「花白様」
女の声に呼び止められて、足を止める。
急いた気分が急きとめられて、一気に不快な気分を増加させながら僕は彼女を振り返った。
そこには、やや怯えた表情の侍女が一人。
僕の表情に浮かんだ苛立ちに怯えているんだろうけど、今の気分でわざわざ優しく微笑んでやる気にはなれない。
「……何?僕急いでるんだけど」
不機嫌そのままの声でやや早口に言うと、ますます侍女は縮こまった。
「あ、あの……、その、すみませ……」
泣きそうな表情で謝ろうとする。
哀れむより鬱陶しい、と思ってしまった自分は大概性格が曲がっている。
……全く要領を得ない。新人かな?そう感じる。
そんなの僕への言付けに使うなよ等と思ったけど、しかし、このままじゃ埒が明かなくて。
今は一時でも早くこの城を出たくて仕方ないのに。
こんな所で時間を取られているという苛立ちを押し殺すのに酷く苦労しながら、ほんの僅かに表情と言葉を緩めて、僕は彼女を促した。
「いいから。それで、何?」
侍女は暫く口をぱくぱくと動かしていたが、一度こく、と喉を鳴らしてから、
「……っ、白梟様が、お呼びです」
そう、言った。
本当に。なんていうタイミングの悪さ。
次の瞬間、侍女の顔がさっと強張る。
どうやら一気に抜け落ちた僕の表情と、顔色に驚いたのだろう。
こういう時、大抵僕は酷い顔色になるからだ。
その自覚はある。
理由も判っているし、どうにもならないと諦めているけど。
「は、花白様っ……!?どう……」
慌てて近寄ってこようとした侍女を手で制して僕は言葉を無理矢理吐き出した。
「………白梟が?」
平静な声には聞こえたと思う。
平静で、酷く平板な、無機質の声。
「は、はいっ……!」
動揺しきった表情で頷きながら言う侍女。
本気で落ち着きが無いというか、経験が浅いというか……。
こんなのを仮にも「救世主」である僕の前に出していいんだろうか。
侍女長に報告しておくべきかなとか、どうでもいいことが思考の隅でぐるぐると巡っていた。
頭を振って空回りしている思考を振り払った。
ふ、と溜息を一つ、ついて。
「…………、あ、そ。」
そう、短く呟いた。
予定はキャンセルだ。
あの人が、僕を呼んだのならそういうことなんだろう。
いつもの事。
それは仕方の無い、ことだ。
だって僕はそういう風に生まれたんだから。
「判った、行くよ。」
ありがとうわざわざご苦労様。
一息で言って、漸く浮かべてみせた笑顔に侍女はほっと安堵の吐息を漏らす。
あぁ、やっぱり簡単だ。
僕が本当に笑ってるかなんて、誰もわからないし、誰も気にしないんだから。
上辺だけの笑顔でいくらだって取り繕える。
いくらだって、騙せる。
漏れかけた溜息を飲み込んで、僕は踵を返して来た道を戻り始めた。
一度だけ。
あと僅かの距離にある外への門に向けた視線は、我ながら未練がましかったと、思う。
*
こん、こん。
二回のノックの後に、「お入りなさい」と澄んだ声が扉の向こうから聞こえた。
分厚い扉越しでも、彼女の声は良く通る。
彼女、と言っても僕はこの人の性別をよく知らない。
というか性別が存在するのかもよくわからない。
だから漠然と、そう認識しているだけだ。
女性的な容貌が目立つから。
でも大概、彼女よりは「この人」なんだけれど。
「……失礼します」
扉を開けて、深々と頭を下げる。
礼にはうるさい人だから、この人の前ではきちんとしておかないと後に響く。
上げた視線の先には、窓からの逆光を背負ってなお白いシルエット。
「あぁ、漸く来ましたか……随分と遅かったですね、花白?」
衣擦れの音と共に、窓際からこちらに一歩歩み寄った白梟は、そう言って僕に静かな碧玉の瞳を向けた。
思わず一歩後退りかけて止め、視線を少し彷徨わせて胸の下で緩く組まれた彼女の指の辺りに留める。
結果、体が不自然に震えたけれど、白梟は気に止める様子は無かった。
いつものこと、だからだ。
僕が白梟の視線を受けて身を微かに竦ませるのも、……決して普段、視線を合わせようとしないのも。
視線を逸らすのは礼に反すると何度言われてもこれだけはどうしても譲らなかったから、
そのうち彼女の方が諦めた。
……僕が視線を合わせようとしないのが、自分だけだと気付いたからかもしれない。
「すみません、白梟。……所用で出かけようとしていたところでしたから」
勤めて普通の声で遅れた理由を告げる。
おや、とほんの僅か眉を寄せて白梟は「そうでしたか」とだけ言った。
咎めるような響きは無いが、そもそも今日からは暫くぶりの休暇なのだから、自分が此処に拘束されている事の方が不当だと思う。
それは口には出さなかったし、白梟も言わなかった。
それも、いつもの事だ。
「それで、何の御用でしょうか?」
一応、聞いてみるが、大体判っていた。
この人が僕を呼ぶ理由なんてそう何個も無い。
正確に言えば、大抵二つだ。
「仕事です、花白」
柔らかく、優しく、それでも有無を言わさない強制力を帯びた声が耳朶を打つ。
その言葉に正直ほんの少しだけ安堵した。
仕事なら、まだいい。
それをこなす事がはっきり言ってどこまでも苦痛であることに変わりは無いけど、どうしても言われたくない言葉が、示されたくない道が僕にはある。
「……今回は、何処へ?」
だから、そう問うた。
白梟は頷くと、はっきりと告げる。
「燈国へ」
す、と白梟が傍らに置かれた水鏡に手を置いた。
視線を移すと、その水面には遠く離れた地の映像が浮かんでいる。
恐らく、燈なのだろう。
あそこは彩の同盟国だ。
何か揉め事が起これば彩の国も手助けをせざるを得ない。
……そんなこと、他の兵団にやらせればいいのに。
第三兵団の、ましてや救世主たる僕の仕事じゃないだろう、とは思うが正直どうでもよかった。
それを言って、本来の仕事の事を持ち出されるのは、もっと嫌だったから。
それにもしかしたら人が死ぬようなことになるのかもしれない。
それならば、成程僕は適任だ。
どこまでも自嘲的に、そう思う。
「詳細は銀朱隊長にお聞きなさい。貴方が遅れている間に全て話しておきましたから」
「わかりました」
素直に首肯する。
白梟が何より求めるのは優秀さと、従順さだ。
そうしていればある程度までは機嫌よく、僕の事を許してくれる。
あの人が僕に優しかったことなんて一度も無かった。
だから、僕は。
《雪融けの刻》
かつかつかつ。
靴音が広い廊下に響き渡る。
その音は酷く虚ろに響いて、それを僕は煩わしく思う。
とにかく早くここから、この城から出てしまいたくて更に足を急がせた。
かつっ。かつ、かっかっかっかっ。
もう、殆ど走ってるのと同じ速度の早足だ。
実際、すでに小走りに近いんじゃないかとは思う。
ただ城内は非常時以外は走ってはいけない事になっている訳だから、走るわけにはいかなかったりする。
……一応、規律ではそうなっている。
本当は今すぐ走りだしてしまいたい気分ではあるのだけど、そんな規律違反なんてあの人に知られたらきっと……また、怒られるから。
「花白様」
女の声に呼び止められて、足を止める。
急いた気分が急きとめられて、一気に不快な気分を増加させながら僕は彼女を振り返った。
そこには、やや怯えた表情の侍女が一人。
僕の表情に浮かんだ苛立ちに怯えているんだろうけど、今の気分でわざわざ優しく微笑んでやる気にはなれない。
「……何?僕急いでるんだけど」
不機嫌そのままの声でやや早口に言うと、ますます侍女は縮こまった。
「あ、あの……、その、すみませ……」
泣きそうな表情で謝ろうとする。
哀れむより鬱陶しい、と思ってしまった自分は大概性格が曲がっている。
……全く要領を得ない。新人かな?そう感じる。
そんなの僕への言付けに使うなよ等と思ったけど、しかし、このままじゃ埒が明かなくて。
今は一時でも早くこの城を出たくて仕方ないのに。
こんな所で時間を取られているという苛立ちを押し殺すのに酷く苦労しながら、ほんの僅かに表情と言葉を緩めて、僕は彼女を促した。
「いいから。それで、何?」
侍女は暫く口をぱくぱくと動かしていたが、一度こく、と喉を鳴らしてから、
「……っ、白梟様が、お呼びです」
そう、言った。
本当に。なんていうタイミングの悪さ。
次の瞬間、侍女の顔がさっと強張る。
どうやら一気に抜け落ちた僕の表情と、顔色に驚いたのだろう。
こういう時、大抵僕は酷い顔色になるからだ。
その自覚はある。
理由も判っているし、どうにもならないと諦めているけど。
「は、花白様っ……!?どう……」
慌てて近寄ってこようとした侍女を手で制して僕は言葉を無理矢理吐き出した。
「………白梟が?」
平静な声には聞こえたと思う。
平静で、酷く平板な、無機質の声。
「は、はいっ……!」
動揺しきった表情で頷きながら言う侍女。
本気で落ち着きが無いというか、経験が浅いというか……。
こんなのを仮にも「救世主」である僕の前に出していいんだろうか。
侍女長に報告しておくべきかなとか、どうでもいいことが思考の隅でぐるぐると巡っていた。
頭を振って空回りしている思考を振り払った。
ふ、と溜息を一つ、ついて。
「…………、あ、そ。」
そう、短く呟いた。
予定はキャンセルだ。
あの人が、僕を呼んだのならそういうことなんだろう。
いつもの事。
それは仕方の無い、ことだ。
だって僕はそういう風に生まれたんだから。
「判った、行くよ。」
ありがとうわざわざご苦労様。
一息で言って、漸く浮かべてみせた笑顔に侍女はほっと安堵の吐息を漏らす。
あぁ、やっぱり簡単だ。
僕が本当に笑ってるかなんて、誰もわからないし、誰も気にしないんだから。
上辺だけの笑顔でいくらだって取り繕える。
いくらだって、騙せる。
漏れかけた溜息を飲み込んで、僕は踵を返して来た道を戻り始めた。
一度だけ。
あと僅かの距離にある外への門に向けた視線は、我ながら未練がましかったと、思う。
*
こん、こん。
二回のノックの後に、「お入りなさい」と澄んだ声が扉の向こうから聞こえた。
分厚い扉越しでも、彼女の声は良く通る。
彼女、と言っても僕はこの人の性別をよく知らない。
というか性別が存在するのかもよくわからない。
だから漠然と、そう認識しているだけだ。
女性的な容貌が目立つから。
でも大概、彼女よりは「この人」なんだけれど。
「……失礼します」
扉を開けて、深々と頭を下げる。
礼にはうるさい人だから、この人の前ではきちんとしておかないと後に響く。
上げた視線の先には、窓からの逆光を背負ってなお白いシルエット。
「あぁ、漸く来ましたか……随分と遅かったですね、花白?」
衣擦れの音と共に、窓際からこちらに一歩歩み寄った白梟は、そう言って僕に静かな碧玉の瞳を向けた。
思わず一歩後退りかけて止め、視線を少し彷徨わせて胸の下で緩く組まれた彼女の指の辺りに留める。
結果、体が不自然に震えたけれど、白梟は気に止める様子は無かった。
いつものこと、だからだ。
僕が白梟の視線を受けて身を微かに竦ませるのも、……決して普段、視線を合わせようとしないのも。
視線を逸らすのは礼に反すると何度言われてもこれだけはどうしても譲らなかったから、
そのうち彼女の方が諦めた。
……僕が視線を合わせようとしないのが、自分だけだと気付いたからかもしれない。
「すみません、白梟。……所用で出かけようとしていたところでしたから」
勤めて普通の声で遅れた理由を告げる。
おや、とほんの僅か眉を寄せて白梟は「そうでしたか」とだけ言った。
咎めるような響きは無いが、そもそも今日からは暫くぶりの休暇なのだから、自分が此処に拘束されている事の方が不当だと思う。
それは口には出さなかったし、白梟も言わなかった。
それも、いつもの事だ。
「それで、何の御用でしょうか?」
一応、聞いてみるが、大体判っていた。
この人が僕を呼ぶ理由なんてそう何個も無い。
正確に言えば、大抵二つだ。
「仕事です、花白」
柔らかく、優しく、それでも有無を言わさない強制力を帯びた声が耳朶を打つ。
その言葉に正直ほんの少しだけ安堵した。
仕事なら、まだいい。
それをこなす事がはっきり言ってどこまでも苦痛であることに変わりは無いけど、どうしても言われたくない言葉が、示されたくない道が僕にはある。
「……今回は、何処へ?」
だから、そう問うた。
白梟は頷くと、はっきりと告げる。
「燈国へ」
す、と白梟が傍らに置かれた水鏡に手を置いた。
視線を移すと、その水面には遠く離れた地の映像が浮かんでいる。
恐らく、燈なのだろう。
あそこは彩の同盟国だ。
何か揉め事が起これば彩の国も手助けをせざるを得ない。
……そんなこと、他の兵団にやらせればいいのに。
第三兵団の、ましてや救世主たる僕の仕事じゃないだろう、とは思うが正直どうでもよかった。
それを言って、本来の仕事の事を持ち出されるのは、もっと嫌だったから。
それにもしかしたら人が死ぬようなことになるのかもしれない。
それならば、成程僕は適任だ。
どこまでも自嘲的に、そう思う。
「詳細は銀朱隊長にお聞きなさい。貴方が遅れている間に全て話しておきましたから」
「わかりました」
素直に首肯する。
白梟が何より求めるのは優秀さと、従順さだ。
そうしていればある程度までは機嫌よく、僕の事を許してくれる。