雪融けの刻
「一刻後に燈まで貴方達を飛ばす手筈になっています。それまでに準備を済ませておきなさい」
白梟の言葉に機械的に「はい」と首肯を繰り返す。
早く終われ、早く終われと口には出さず思いながら。
おかげで話す内容は半分以上頭に入って来なかった。
後で、銀朱にでも聞き直せばいい話だ。
あの馬鹿は一々うるさく言ってくるだろうが、そんな事はどうでもいい。
既にあれは心の中で本日の腹いせと八つ当たりの相手に決定している。
「……以上です」
「はい。それでは、失礼します」
白梟の、終わりを告げる言葉に心底ほっとするが表情には表さないまま、ややせわしなく一礼して彼女に背を向ける。
逃げ出すような、いや、逃げ出したいんだ。
そう、一刻も早くこの場所から離れたかった。
だから、
「…あぁ、花白?」
思い出したように声が掛けられたとき、体が、音を立てて軋んだ。
それは、錯覚以外の何物でもなかったけど。
そう、感じた。
「……はい、なんでしょう、白梟」
背を向けたまま問うが、答えが返ってこないので仕方なく振り返る。
猛禽類を思わせる金の光を帯びた翠の瞳と、視線が合った。
合って、しまった。
引き込まれる。
淡い色の、深い深い瞳に。
目を逸らせなくて、瞬きすら忘れたようにその美しい顔を凝視しながら、緊張と恐怖に汗がじわりと滲むのを感じた。
「……玄冬の件です」
口を開いた白梟の言葉は、予想通りの言葉だった。
予想通りの、
一番聞きたくない言葉だった。
「…………」
咄嗟に、言葉が紡げない。
開いた口を何も言わないまま閉じると、白梟が僅かに目を細めた。
ひく、と息を飲む。
増す、圧迫感に凍りつく。
彼女は、白の鳥。……春告げの鳥だというのに。
「……理解っていますね、花白」
静かな声。
静か過ぎる位のその声が、僕は何より怖かった。
言われるその内容と、同じくらいに。
「…………、はい。わかって、います」
震えるな。そう、自分を内心で叱咤する。
微細な震えも、迷いも見せられない。
僕の、迷いなんて。
この人には、見せられない。
見られたらきっと、きっと。
「今は、まだ待ちますが……」
「大丈夫です。やります、ちゃんと」
言いかけた言葉を、強く言葉で遮った。
白梟は暫く僕を見つめていたが、
「……そうですか」
そう呟き、頷いた。
充分かは解らなかったけど、白梟はそれなりに満足げに微笑する。
それに緊張が幾許か解けるが、すぐにまたそれは蘇った。
すっと、真っ直ぐに差された人差し指の為に。
僕が背にした扉の方に向けられたそれを、僅かに呆然と見つめる。
「では、お行きなさい。行って、使命を果たしてくるのです」
無言で頷いた後、僕は逃げるように部屋を退出した。
そして、休暇を丸々消費し仕事を終えて帰ってきた僕に、
白梟は「お疲れ様でした」と言って、微笑を浮かべたのだ。
そう、いつもの様に。
*
あの人が僕に優しかった事なんて一度も無かった。
いくら静かで穏やかで優しく見えても、
白梟は僕には厳しくて、酷く冷たかった。
僕の「育て親」だけど、僕は子供としては扱われることなんてなくて。
ただ、救世主だから。
玄冬を殺す、唯一だから。
この世界を救う存在だから。
ただ、それだけ。
それだけだ。
あの人にとって、僕は、それだけの存在だ。
褒められたり、頭を撫でられたりした事はあったけど、
何かの情を欠片でも感じた事は、一度も無かった。
ただ、一度たりとも。
……無かった。
あの人が怖かった。
綺麗でまっすぐで、ただ只管にその事だけを求めてくる姿勢が恐ろしかった。
だから、……僕は。
あの人のことが、嫌いだった。
*
群の国。
哉と燈の軍隊が睨みあっている戦場の端に僕はいた。
誰の目にもつかないような林の中に身を潜めて、
僕は数刻の後に戦場となる場所を、じっと見つめていた。
様々な考えが頭を過ぎる。
玄冬の事、これから始まる戦いの事、別れ際の銀朱の言葉、とか。
思考は渦巻いて吐き気すら催して。
ふと、僕は自分の手を見下ろした。
白梟を斬った時の血の跡は、無い。
だけど、あの感触は今でも残っている。
この剣で、自らの手で刺し貫いた、その感触が。
骨を断って。
肉を切り裂いて。
濡れて、零れた血の色すらも鮮明に。
最期の言葉、その微笑みが焼き付いて、離れない。
「……あれ」
人なんてもう何人だって斬ってきた。
これからしようとしている事だってそうだ。
同じだ。
同じなのに。
どうして、こんなに手が震えているんだろう。
震える手を止めるために、剣の柄を握り締めた。
痛みを感じるほど、強く。
「どうして」
最期まで、あの人は僕に優しくなんてなくて。
僕は、そんなあの人の事が嫌いだったのに。
嫌い、だった……?
僕は思わず頭を振る。
(……違う)
嫌いだと、そう、思っていた。
だって、
あの人はどこまでも綺麗で、厳しくて。
僕の事を僕として扱わない人で。
求められるのはただ救世主としての僕で。
だから。
あの人を好きでいるのは、辛すぎた。
嫌いだと思うほうが、よっぽど楽だったんだ。
そんなの、今更思っても仕方ないのにと、僕はただ剣を握りしめた。
*
そうして。
全てが終わり、戦は止まった。
僕の傍らには玄冬がいて、そして春告げの鳥が失われた箱庭に、春が訪れる。
「じゃあ、好きだったんだな」
玄冬の言葉には、曖昧に答えた。
それでも、彼の言葉をきっかけに箍が外れ、今まで凍らせていた想いが溢れ出す。
まるで雪解けの後のせせらぎのようにその想いは奔流となり、そして、その波を止める術を僕は持たなかった。
白いひと。
どこまでもどこまでも清廉で、けがれのないひと。
痛いくらいに真っ直ぐにどこかとおくを見つめるひと。
その白さを、厳しさを憎みもしたけれど。
僕は、同時に焦がれていた。
白い予言師。
僕の鳥。
僕の、たった一人の育ての親。
僕に少しも優しくなかった、ひと。
だから、僕はあの人を嫌いだと思おうとした。
だけど。
僕は、本当は。
あの人を好きになりたかった。
ずっとずっと、好きだった。
……好いて、欲しかった。
……愛されたかった。
あの人は愛していますよ、と言うのだろう。
それでも、それは僕の求めるものと違っていて。
だから僕とあの人はこういう別れ方しか出来なかった。
嗚咽が込み上げて、肩が震えた。
それは後悔ではなかったけれど。
それでも、僕はあの人の為にはじめて、ほんの少しだけ、泣いた。
もう二度と言えないけれど。
遅すぎたかもしれないけれど。
……伝わらないかも、しれないけど。
……僕はそれでもあなたの事を、確かに愛していた。