灰色の天使
バゼットの背を、冷たい風が吹き抜けた。
……バゼットの傍らをすり抜けてくるようにして男性があらわれた。しゃがみこみ、駆けてきた子供を男性が抱きしめる。かすめ見た破顔は、引き裂かれていた親子の長い年月を思わせた。
「パパ!」
子供が男性の首にかじりつき、くりかえし呼んでいる。バゼットは出していた手をポケットに戻し、現実の感触を確かめた。恥ずかしさのような、喜びのような笑みが口端をかすめて消えた。短い夢だった。
父子は顔を見合わせ、再会を喜んでいる。その風景は、あらぬ思い込みをしていたバゼットの恥ずかしさを払拭するほどに微笑ましかった。バゼットは素知らぬふりをしながら、注意深く言峰に目を向けた。言峰は優しい顔つきを崩さないまま親子を眺めていた。言峰を知らない人間が見たら、親子のしばらくぶりの再会を我がことのように嬉しく感じていると思うに違いない。
男性が言峰に気づいて顔をあげた。言峰は父子のすぐ傍にまで近づいていた。
「この人が風船を買ってくれたの」
「そうですか」
子供が説明し、父親が立ちあがって言峰に礼を述べた。子供は父親の足にかじりつき、喜びを隠しきれない様子ではしゃいでいる。つられて、風船がせわしなく揺れた。
言峰は謙遜するように首を振った。
「この子がずいぶんと長くひとりでいたものですから、気になりましてね」
「約束の時間からだいぶ遅れてしまって。この子にはいつも待たせてばかりで申し訳ないことをしています」
「しかしいい子だ。時間が過ぎても、貴方が来ると信じていた」
他人同士の、短く簡潔な会話が交わされる。バゼットは女神を眺める観光客の素振りをしながら、会話に耳をそばだてていた。距離を縮めるような親しげな言動は、言峰にしてはめずらしいと思いながら、その一方で高まっていく緊張を感じていた。
「待った甲斐があったな」
言峰が子供へ同意を求めるように言い、子供は父親の両手にかじりついたままうなずいた。
眺めていたバゼットは、ポケットのなかで拳を握りしめた。目の端にうつっている言峰の姿は、一見してなんの変化も感じられない。しかし言峰の目の奥に、いつもの冷徹な光りが灯ったのをバゼットは見逃さなかった。この広場を包む陰鬱さのような、仄暗く冷ややかかな愉悦の兆しだった。
男性に向けて、低い声で言峰は告げた。
「私も待っていた。おまえが〈天使〉だ」
男性が目に見えてうろたえた。後ずさり、言峰に背を向けて逃げようとするが、子供がまとわりついていてかなわない。子供が不審がって父親を見あげる。
「どうしたの、パパ?」
「帰ろう。ここにいてはいけない。早く」
ほとんど叱るように子供をうながす男性の顔色は、別人のように厳しかった。身動きがままならない男性をあざ笑うように、悠々とした動作で言峰が片手を挙げた。
バゼットには男性の身体がひとつ震えたように見えた。驚愕に見開いたその目は、すでに現実を見てはいなかった。
男性の身が地へ崩れ落ちる。その脇を言峰がすり抜けて来る。何事もなかったような超然とした言峰の所作の後ろで、倒れた父親に子供がすがりつくのをバゼットは眺めていた。
「パパ?」
男性の周囲に血がにじみ、コンクリートにあざやかな赤い色をひろげていく。ようやく子供が事態に気づき、悲鳴をあげた。
子供の手から離れた黄色い風船が、風に翻弄されながら空へとのぼっていく。
「パパ———パパ!」
子供の悲痛な呼びかけが空気を裂くように響く。周囲がどよめき、ざわめきが波のように広がり、人々がおそるおそるその光景に注目しはじめていた。
言峰が歩いてくる。背後に目もくれず、いままで親しくしていた子供が泣き叫んでいてもまるで動じない姿を見て、バゼットはこれが言峰のたくらみどおりの結果なのだと悟った。言峰はあの父親を標的にし、会いにくると知って子供に近づいた。おそらく、バゼットが勝手に想像していた境遇とあの父親の立場は似ていたのだろう。バゼットは父親の亡骸を見つめてから、背後の森を一瞥した。
すべては優しさではなく、父親を殺すための計略だった。子供に話しかけていたのは待つのを飽きさせないため、買い与えた黄色い風船は狙撃の目印のため、そして親しみに溢れた笑顔は父親に近づいて標的だと確認するためだった。子供が抱きついて身動きがとれなくなるだろうことも、言峰は計算していたにちがいない。会えたらうんと甘えなさいとでも言ってあったのだろう。それが効率よく任務を遂げるためなのか、それとも愉悦を深めるためなのかとバゼットは考え、両方だろうと結論づけた。
「あまり見るな」
隣を通り過ぎながら言峰が言う。足どりを緩めない言峰に倣って、バゼットも親子に背を向けた。
「彼が天使だったのですね」
「そうだ。子供の線を追っていてようやく見つけ出した」
言峰の声も歩みも、もう用が済んだといわんばかりに後腐れがなかった。騒ぎを聞きつけて集まってくる群衆を器用に避けていく。バゼットは言峰に寄り添って顔をうかがった。子供に見せていたおおらかな笑顔はすっかり消え失せ、その顔つきは、近寄りがたい威厳と暗い悪意を滲ませた見慣れたものになっていた。優しさも寛容も今は微塵にもない。いちど抱いたあの憧れは、過ぎ去った想像のなかへ留めておけばいいとバゼットは思った。現実では、嘘を隠した優しさよりも、本心を顕した悪意を向けられていたい。
バゼットはそっと後ろを振りかえった。人だかりができていて親子の姿はほとんど見えない。子供が父親を呼びつづける声が切れ切れになって聞こえてくる。
バゼットは上空へと目をやった。黄色い風船が揺れ、女神に寄り添いながらのぼっていく。風に翻弄され、像にぶつかり、浮かんではぶつりながら、子供の声とともに小さくなっていく。考えてはいけないと思いながらも、風船と子供の未来をバゼットは重ね見ていた。
女神は黙したまま、威風を失わずにその翼を広げ、その重々しい姿で広場に紡がれたおのがししの人生を睥睨していた。
その背後には灰色の雲が低くたれこめた、ベルリンの空があった。
終