鮫の住処
「帝人先輩は自分を気にかけなすぎです」
救急箱から包帯を取り出しながら青葉は不満気に言った。いつもの『粛清』の帰りのことである。
帝人の腕やら足やらにはコンクリートで擦ったような擦り傷が多くついている。じわじわ染み出す血液を拭っては青葉は溜息を吐く。
「だいたい、弱いんだって自覚があるんなら先輩は引っ込んでればいいんですよ。毎回毎回怪我して帰ってこられちゃ堪りません」
「毎回じゃないよ」
「似た様なものじゃないですか」
むくれたように反論する帝人にも、青葉は容赦がない。続けざまにぽんぽん言葉を吐き出していく。
「手当てするこっちの身にもなってください」
「薬代だって馬鹿にならないから?」
「心配してるんです」
まったく、とぶつぶつ言いながらも甲斐甲斐しく青葉は帝人の腕に包帯を巻きつけていく。傷自体は大したことはないが、何せ範囲が広い。片腕はすっかり白に覆われてしまった。
「もうやらないでくださいよ」
あはは、とあっけらかんと帝人は笑う。否定も肯定もしない態度。
「この次もまた、僕は前線に立つよ」
帝人の言葉に青葉はぎゅっと拳を握りしめる。何を言っても聞かないことは承知していた。理詰めで説得しても脅して宥めすかしても帝人はのらりくらりとかわして結局は自分の意思を通してしまう。
はぁ、と青葉は溜息を吐き出すことで返事の代わりとした。
こんこん、軽いノックの音が昼下がりの室内に響いた。
「こんにちは、先輩」
開かれた扉の外側で手を上げてにこりと笑う後輩の姿に帝人はぱちりと瞬きをした。尋ねてくるとは珍しい、帝人はぱちぱち目を瞬かせて
「どうしたの、何かあった?」と聞いた。
「いえ、特にないんです。強いて言うなら先輩の怪我の様子見に」
心配性だね、と帝人は笑って、「上がりなよ」と青葉を招いた。
「お邪魔します」
礼儀正しく挨拶をする青葉を横目に見ながら、折角来たのだからお茶でも出そうかと帝人は冷蔵庫を開ける。パックの麦茶をグラスに注ぐだけ。テーブルの上に二つのグラスを置いて座るように促せば、青葉は少し躊躇ってから素直に従った。
「先輩、怪我まだ治ってないんですか」
「もう瘡蓋だけだよ。あと数日もしたら跡形もないんじゃないかな」
ふうん、と青葉は引っ掻いたような瘡蓋を見つめながら麦茶に口を付けた。よっぽど喉が渇いていたのか、麦茶はあっという間に底をついてしまって、後には透明なグラスだけが残った。
「お代わり、いる?」
「お願いします」
帝人は肩を竦めてひょいとグラスを持ち上げる。台所へ向かう後姿を確認した青葉は、ポケットに入れておいたケースから砕けた錠剤を取り出すと向かいに置かれていた帝人のグラスにそれを放り入れた。くるりと揺すれば白い粉のようなそれは薄い茶色に紛れてすぐに見えなくなった。
「お待たせ」
青葉にグラスを手渡すと、帝人は向かいに座って自分の分の麦茶を口に運んだ。
「今日も暑いですね」
窓の外では蝉が鳴いている。そうだね、と帝人も相槌を打つ。
青葉は本当に特段用事もないままここに来たようだった。ぽつぽつ交わされる会話は、日常のことであったり仲間内での馬鹿げた話であったりした。
あくまでもただの先輩後輩のような、他愛ない話を続ける。たまにはいいか、という気紛れに支えられた時間は思っていたより穏やかだった。
くぁ、と帝人は欠伸をした。すっかりぬるくなったお茶のグラスが汗をかいている。
目蓋が重い。何故だかひどく眠かった。最近無理をしすぎただろうかと帝人は思う。向かいの青葉が不思議そうな顔をしていた。
「ごめん、少し眠くて」
「構いませんよ、暫くしたら帰りますから」
「うん、ごめん」
まどろみに帝人は身を委ねた。生温い風が通っている。
「帝人先輩、血の匂いは鮫を引き寄せるだけですよ」
落ちていく目蓋の向こうで青葉が笑う。何故そんなことを言うのか帝人にはさっぱりわからなかった。
浮かび上がった意識のままに目を開く。ああ眠ってしまったんだと帝人は伸びをして、目に入った光景に唖然とした。
暗い青の色をした壁である。
辺りを見回すも、それ以外には何もない。ただ唯一、木目のある扉が目についた。
帝人が横になっていたのも馴染みのある古ぼけた畳などではなく、硬いスプリングのベッドだった。帝人は現実的な思考をしていた。自分の置かれている状況と自分の立場を鑑みれば拉致、という言葉が脳裏に浮かぶ。
ざっと身の回りを確認する。衣服は眠る前のものと相違ない。ポケットに入れておいた携帯は奪われているらしい。拘束されている様子はない。ただ寝かせられていただけらしい。見渡す限り何もない、殺風景にも程がある室内だった。
ひたり、床に足をつける。これまた暗い色をしたタイルが敷き詰められていた。
立ち上がるも、やはり風景に変化はない。とりあえずはと木目調の扉に目を遣った時、どこからかがちゃり、と音がした。
「青葉君・・・」
「あ、目が覚めましたね」
重苦しい音をたてて壁の一部が切り取られたように開いた。出てきた愛らしい後輩の顔を見て、帝人は胡乱な目をそちらに向ける。
「君の仕業?」
「はい。先輩、最近怪我が多いじゃないですか。俺心配で心配で。だから、ここにいて貰うことにしたんです。あ、指示は今まで通りお願いしますね」
邪気のない顔でつらつら並べ立てられた言葉に帝人は顔を顰めた。断りもなく、こんな身勝手な手段で自分に危害を加えられたことに対して怒りを感じている。しかし自分の身を案じてくれたことが枷になり、なんとも言えない感情を青葉に向けている状態だ。言葉で表すなら、そう『気味が悪い』とでも言うのか。
「そうだ、先輩、これお返しします」
市松模様のボタンが特徴的な携帯電話は帝人のもので間違いない。
ざっと目を通すと、ブルースクウェアのメンバーのもの以外の全てのデータが消えていた。消去されたらしい。
非難するような目を向けると青葉は悪びれもせず「俺らのデータまで消えてたら、連絡取るのに困るでしょう?」と言って笑った。
インターネットへは接続できる。ダラーズのサイトへも、簡単に。これならすぐに助けを求められるだろう。
「これで、僕が誰かに助けを求めるとは思わないの?」
「出来ますかね。どのみちここが一体どこなのか、先輩には想像もつかないでしょう」
壁は暗い。窓はない。重苦しい扉には内鍵も引き手もついていないらしく、つるりとしている。天井からぶら下がる蛍光灯がほの明るく辺りを照らしていた。藍色に明るい色の散りばめられたタイルが冷たく足先の温度を奪っていく。洒落た金属フレームのベッドがぽつんと据え置かれている以外、調度品らしい調度品は存在していなかった。そこだけ色の違う木製扉の向こうに出口なんて存在していないことを、帝人は薄々ながら確信していた。
言っておきますけど、と青葉は幼い笑みを顔に刷く。
「九十九屋さんや折原臨也に助けを求めても、無駄だと思いますよ。いくら彼らでも、ゼロから何かを組み立てることは出来ない」
「可能性はゼロとは限らない、違うかな」
「ゼロですよ」
いやにはっきりとした声で青葉は言う。ブラフかどうか、帝人には判断できなかった。
「ねえ帝人先輩、僕らは鮫なんです」
「何を今更・・・」